2021年04月18日

三国港での堆砂減少の原因はなにか

 3月の大阪公立高校一般選抜の問題で、おかしいのではと書きました。福井県三国港で防波堤を作ったところ三国港周辺で土砂の堆積がなくなったという記述についてです。下がその問題の部分です。

 ネットにあげられている限りでは、そのような記述が見られませんでした。逆にそれほど効果がなかったと書かれている一説も見つけました。 防波堤を作ったのは、オランダではこれを作たことによって、土砂が堆積(堆砂)するのを少なくすることができたからです。川の違いかなとそのサイトには書かれていました。

 その後気がついたことです。基本的に三国港は川の攻撃斜面にあたっているので、堆砂は起こりにくいはずです。堆砂があるとしたら、おそらく河口付近かその先でしょう。ここに砂がたまることによって港に出入りする船が通りにくくなっていたことはありそうです。三国港で起こった問題は、三国港での問題ではなく、その入口にあたる場所で船が通れなくなったという方がしっくりしそうです。
 河口の堆砂のあるところに川のカーブをそのまま延長して攻撃斜面が続くように導流堤を作れば、沖合まで流れの勢いはそのままです。土砂は沖合まで運ばれていきそうです。でも堆積したものを運び去るほどの勢いがあるのかどうかについてははっきりしません。
 本文中に三国港付近での変化と書かれています。その範囲に河口から沖あいまで含まれるとしたらこの文書は正しい記述になりそうです。しかし、「河口から沖合に向かう流路ができ」とわざわざ別に書かれていますから、「河口から沖合」は含まれないような気がします。
 導流堤を作ることによって、三国港付近の水面は上昇します。流れに勢いがあるということはその分水面が傾斜している必要があるからです。沖合まで流れていったということは、沖合から一定の傾斜で水面が高くなっていることを示しています。その分堆砂が起こりそうです。そうであったとしても影響は無視できるでしょう。堆砂が起こってもその分水面もたかくなりますから、水深はそれほど変わらないといえそうです。

 気になるのは、オランダでうまくいったものがどうして日本ではうまくいかなかったのかということです。一番大きな違いは、日本の場合は、川の長さが短く傾斜がきついということ、大雨による洪水の影響を受けやすく、平時に比べて流速が非常に大きくなる点です。堆砂が起こるとしたら、洪水が治まり始め流速が遅くなりはじめたときでしょう。この時にたまったものは、ふだんの流速で運ばれてくる物よりも大きな粒子ですから、導流堤で流れを運び去ろうとしても流速が少なく、運び去れないような気がします。このような土砂は、さらに新しい洪水がないと運び去ることはできないでしょう。
 大陸の河川は年間を通じて流量がそれほど変わりそうにありません。局所的な洪水とかは平均化されるからです。一定の流速で流れているとすると、ほぼ粒径のそろった砂粒が運ばれてくるでしょう。流速が変化しないのなら、いったんたまった土砂は運び去られにくくなります。

 こういった話とは別に考えないといけないことがあります。一般に河口付近では潮の干満によって流れが行ったりきたりしています。このような領域を感潮域と呼んでいます。感潮域では、いったん流れが止まる時間帯もあります。この時には堆砂が起こりそうです。いったんたまった土砂は、より強い流れがないと運び去ることができません。
 大陸の河川ではどうなるのでしょうか。川の傾斜が非常に緩やかなのが特徴です。その分、感潮域が長くなります。満潮で川を遡っていく水量は多いでしょう。その速さも大きくなりそうです。干潮になると、遡っていった水と、本来川で運ばれてきた水があわさって、感潮域でないところよりも速い流れができます。この流れによって、たまった土砂は沖合に運ばれていくことができます。
 導流堤をつくった効果は、干潮時に流れが速くなることによってじゅうぶんに期待できます。ただし、導流堤の先は新たな河口となるわけですから、ここでの堆砂は避けられません。砂の堆積する場所が広くなるので、埋まるまでの時間稼ぎはできるでしょう。
 日本の河川の場合は、感潮域も狭いという特徴があります。潮の干満による流速の変化は少ないでしょう。洪水時の流速の変化が大きく影響してきそうです。

 結局のところ、三国港の堆砂はどうなっていたのでしょう。現在は河口の南側に大きな港(福井港)が作られ、大きな船の発着はなくなっていそうです。昭和になってから、堤防を延長したのも、三国港の堆砂対策ではなく、福井港への波よけのような気がします。でも、堤防の内側に九頭竜川の流れを引き込んでいるので、港内に砂がたまっていきそうな気がします。
 九頭竜川上流には、九頭竜ダム(1968年完成)を始め水力発電用(一応多目的ダムとされています)のダムがたくさん造られています。ダムができる事によって川が運んでくる土砂が急減して、各地の海岸の砂浜が減少しているともいわれています。堆砂が少なくなったとしたらこの影響も考えてみる必要があります。


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2021年04月16日

紅葉の東海三山 番外編8 門の種類 門の呼び方

 門の中にはその構造以外の事柄に注目して様々な呼び方でよばれているものがあります。例を挙げながら見ていくことにします。

 −−− 付属しているものに注目した呼び方 −−
<唐門>
 門の上に乗る屋根の形が千鳥破風ではなく、唐破風になっている門を唐門といいます。これも日本独自のもので、唐とは関係ないようです。
 普通、唐破風は屋根の妻面につきます.門の入口から見て側面にあたり見えません。そのため、唐破風を軒先につけたり、妻面が前後にむくように屋根の向きを変えたものもあります。入口側から見て唐破風が横向にあるものを平唐門、正面を向くようにあるものを向唐門といいます。
 豊川稲荷総門です。向唐門になります。門の基本的な形は四脚門です。 80623


<仁王門>
 八脚門で、両脇の4本の控え柱でかこまれた区画に金剛力士像が置かれているものを仁王門といいます。仁王さんは金剛力士の別の呼び方です。
 豊川稲荷の山門です。形式的には楼門です。80619

 置かれている金剛力士像です。口を開けた阿形(あぎょう)と閉じた吽形(うんぎょう)が対になっています。これは阿形の方です。そういえば、狛犬も阿形吽形が対になっています。80618

 金剛力士像の代わりに、四天王像や大臣が置かれているものもあります。四天王の内2人がいれば二天門、4人ともいれば四天門といいます。大臣の場合は右側が左大臣、左側が矢大臣で対になっています。このような門は随神門(随身門)といい、お寺ではなく神社の門で見られます。江戸時代の神仏習合と明治維新の廃仏毀釈が関係しているようです。

<鐘楼門>
 門の2階部分に鐘が置かれている門をいいます。楼門に鐘があるのか、鐘楼が門になったのか。後者の方が正しいのような気がします。鐘の音が外に響くように、開放された大きな窓が設けられています。
 横蔵寺の山門です。二階の窓になっているところに鐘があります。

 ここからだと鐘のようすがわかりません。境内側からははっきり見えました。


−−− 門が設置されてる場所による呼び方 −−−
<総門と山門>
 もうすでに総門とか三門とか名前がでてきていますが、どちらも、お寺の入口にある門をいいます。可睡斎や豊川稲荷のように総門と山門の両方のあるお寺もあります。どれを総門とするのかはお寺によって決めているようにみえます。今回まわったところでは、総門の内側に山門がありました。総門の方がより広い寺域の入口をさしているようです。一般的には楼門か二重門で仁王門(四天門)形式の門を三門とよんでいることが多いようです。
 山門は、お寺の名前は山号(法多山とか)でよぶことがあります。その山の門という意味で使われています。門には山号の描かれた額が掲げられていることが普通です。
 法多山尊永寺の山門です。額が下がっているのはわかりますが、この写真からは山号を読み取ることはできません。手前に石碑のような石が対になって並んでいます。石柱門のように見えます。更に外側に冠木門がありました。どれかが総門のなのでしょうか。80854

 山門ではなく三門という書き方をすることがあります。これは三解脱門の略で、ここをくぐると煩悩を解脱することができるそうです。禅宗のお寺の二重門に使われるのが一般的なようです。
 お城では、正面側が大手門または追手門、裏側が搦手門といいます。

<南門とか>
 一般的な名称というより、どちらかというと門につけた名前でしょう。単純に南側にあるから南門と呼ぶようにした、ぐらいの意味合いでしょう。門内部の区画が大きくなってくると、南大門とか朱雀門と呼び方が変わってきます。
 華厳寺中門です。中にあるから中門なのかな。形式は高麗門です。控え柱に乗る屋根が見えています。 71214


 横蔵寺の山門のように、楼門で、仁王門で、かつ鐘楼門といくつもの呼び方で呼べる門があります。どう呼ぶかは何に注目しているかによるのでしょう。お寺からすれば、形式はどうでも良く、どこにあるのかが大事なのでしょう。


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2021年04月15日

紅葉の東海三山 番外編7 門の種類 大きな門その他

    −−− 大きな門 −−−−
<楼門>
 八脚門で2階建てになったものを楼門といいます。2階部分の周囲には回廊が巡らされているのが普通です。写真は大矢田神社山門です。

<二重門>
 楼門で1階部分にも屋根が設けられたものです。写真は華厳寺山門です。


   −−− その他の門 −−−
<櫓門>
 お城の櫓の下に設けられた門です。起源が門ではないので、本柱控え柱の構造を持って今ません。櫓の前面に扉が設けられています。
 油山寺の総門は、元々は掛川城の大手門で、明治の廃城令でとりこわされたときにここに移築したそうです。

<長屋門>
 塀の間ではなく、細長い長屋型の建物の間に設けられた門です。
 華厳寺の法輪院の入口です。右側だけを見ると普通の居住用の建物です。その横に門が設けられて更に左にも建物が続いていいます。
華厳寺法輪院 長屋門


  −−− 形のはっきりしない門 −−−
 横蔵寺に向かう途中にあった祠の入口です。柱が4本横に並んでいて(三間)、両脇の屋根が一段低くなっています。柱の後方には控え柱もありますから、三棟門のように見ます。控え柱は屋根を支えていません。
 はじめは三棟門と思っていたのですが、写真をよく見ると何か変です。屋根の棟木が本柱の真上にはなく、控え柱側に後退したところにあります。この屋根はどのように支えられているのでしょうか。遅れないようについていくのが精一杯でじっくりと見ていませんでした。

 円興寺の僧坊への入口の門です。出入り口になっている所の屋根の左右に一段低い屋根がありますから、三棟門のように見えます。更によく見ると横にもう一段低い屋根があります。二段に引くなっていて、高麗門のように控え柱にも屋根の乗っているものは七棟門というようですが、控え柱と屋根の関係から高麗門というより薬医門に近いようです。
 よくわからない形ですが、一番低い段の屋根が塀の上のあるもので、塀はすぐになくなっていると考えれば、三棟門の変形かなとも思われます。居住区域の様な気がしたので近くで確認していません。

 豊川稲荷景雲門です。元々は奥の院の建物を門の形に作り替えたものです。ちょっと目は八脚門に見えます。横は五間幅で前にせり出した柱は三間幅です。五間一戸のようです。これは向拝の名残でしょうか。裏から見ると通りぬけられる母屋のようです。



 門の変化のようすを整理してみます。

[塀重門](基本形) −−(簡素化)−→[石柱門]
 |      |  
 ↓(桁をかける)↓
[冠木門]  [鳥居]
 |
 ↓(屋根が乗る)
[家棟門]−−−−−−(幅が広がる)→[三棟門]
 |                 |
 ↓(後方に控え柱)          |
(二脚型の門)−−→[高麗門・薬医門] |
 | (変形)          |
 |                 |
 ↓(前方にも控え柱)         ↓(前後に控え柱)
[四脚門]             [八脚門]
                   ↓(二層化)
                  [楼門・二重門]

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2021年04月14日

紅葉の東海三山 番外編6 門の種類 少し大きな門

<三棟門>
 柱と柱の間を「間」といい、それがいくつあるかで建物の大きさを表すことがあります。古代建物で、三間×四間の堀立柱建物とか、大矢田神社の拝殿は三間向拝であるといった使い方をします。
 門を横に広げて大きくしたものがあります。そのまま広げていくのは無理ですから、柱を増やすことになります。左右対称に2本柱を増やすことで、三間の幅を持った門ができます。このような門は三間門といっていいのでしょうが、普通は三棟門といいます。両脇の間の屋根が一段低くなっていることから3つの建物が重なっているように見えることからつけられているのでしょう。
 三棟門の例です。華厳寺の総門です。門では柱に挟まれた入口の数を「戸」で表すことがあります。車道で1戸、両脇の歩道にそれぞれ1戸ずつあります。柱の数とまとめて三間三戸の門ということになります。


<四脚門>
 門の上に乗せる屋根が大きくなってくると、前後に不安定になってきます。倒れないように柱の前後に2本づつ柱を立てて支えた門が作られます。この門では、真ん中にある柱を本柱、前後の支えのための柱を控え柱といいます。控え柱が4本あるということで四脚門(しきゃくもん)または四足門(よつあしもん)といいます。柱は全部で6本になります。
 油山寺礼拝門です。四脚門のように見えます。控え柱が屋根を支えていて、その中に本柱を使って扉が取り付けられているようにみえます。ここの門の特徴は棟瓦側面に菩薩像が彫刻されていることです。
油山寺礼拝門


<高麗門>
 本柱の前後に控え柱を設けて四脚門ができる前に、もう一段階あるような気がします。控え柱が本柱の内側にのみあるタイプの門です。二脚門とよべそうですが調べてもそのような名前はでてきません。二脚型の門としておきます。
 二脚型の門のタイプに2種類の変形版があります。一つは控え柱の上に切妻型の屋根が乗せられたものです。高麗門といいます。名前が高麗となっていますが、日本独自のもののようです。
 可睡斎の総門です。内側から写しています。この方が控え柱に屋根が乗っているようすがよくわかります。

<薬医門>
 二脚門のもう一つの変形型です。本柱と控え柱の4本で屋根を支えるようにしたものです。本柱と控え柱の間に梁を渡し、その真ん中より本柱側に束を乗せてその上に棟木を渡して屋根をつけます。屋根は、本柱側に寄った形で乗ることになります。このタイプの門を薬医門といいます。
 寂光院の山門がこのタイプと説明されていました。本柱と控え柱の真ん中くらいに棟木があるように見えます。

 横蔵寺寺門です。控え柱側にも冠木と平行に桁が乗っています。屋根の位置が本柱側に偏っているため、全体に前にせり出しているように見えます。このタイプのものは他にもいくつか見かけました。

<八脚門>
 三棟門のタイプからも前後に控え柱のついた変形型ができます。八脚門または八足門といいます。
 完全な八脚門は見かけませんでした。かなり変形が加わっていますが、可睡斎の山門がこのタイプのように見えます。控え柱が屋根を支えるようになっていて、両脇の4本の控え柱の間に部屋を設け金剛力士像が置かれています。両脇の屋根が一段低くなっていることから、三棟門としているウェブサイトもあります。




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2021年04月12日

紅葉の東海三山 番外編5 門の種類 基本形

 門の構造や種類についてみていくことにします。
 門の造りを見たり調べたりしている内に、門の形がどう変化してきたのかが何となくわかるようなきがしてきました。どのように変化してきたのかを考えながら見ていくことにします。
 そもそも、門は建物敷地への出入り口として設けられています。敷地内に侵入されないように、周囲は塀でかこまれます。生垣といったものになることもあります。
 入口がそれだけでは、せっかく出入りできないように周囲を囲ったのが何の意味もなしません。そこで、門には両端を柱で支えられた扉が取り付けられます。これが門の一番単純な形となるようです。

<塀重門>
 塀の一部に2本の柱で支えられた扉が取り付けられている門です。自由に出入りできるところでは、扉がなくなって両端の柱だけが残されている形になります。
 寂光院の総門です。柱と塀の一部だけが作られています。扉はありません。

 こんなものも塀重門といっていいのでしょう。寂光院の参道入り口です。


<石柱門>
 塀重門で、出入りを自由にとしていると、塀を作る意味がなくなって、象徴的に柱だけが残されることがあります。これが石柱門です。
 油山寺驥山門です。柱が2本並んでいるだけです。地面付近まで写すのを忘れていました。


<鳥居>
 吉野ヶ里遺跡では王の屋敷入り口の門に桁をわたして、その上に鳥の模型が並べられていました。鳥には空を飛ぶという特別な力があり、その下をくぐることでその霊力を授かろうということで乗せられていたようです。これが鳥居の原型とされています。鳥が居るから鳥居です。
 大矢田神社雄建社の鳥居です。これだと門のように見えます。手前に2つ並んでいる石灯籠は形態的には石柱門ににています。


<冠木門>
 塀重門で門が大きくなってくると、門の重みで柱が内側に倒れそうになります。これを防ぐために、柱の間に太い桁を渡します。この桁は冠木とよんでいて、このような形の門を冠木門といいます。関所史跡などで見ることがあります。
 尊永寺の門です。寺に入るときに一番最初に見たので総門になるのかな。


<家棟門>
 門の上に切妻型の屋根を乗せたものです。棟門ともいいます。乗せ方としてはいくつかあるようですが、代表的なのは次の2通りです。
 柱を前後に貫通させるように梁を通します。この梁を腕木といいます。柱の頂部に棟木をのせ、腕木の先に渡した桁との間で屋根を支えます。腕木門とよぶことがあるようです。大矢田神社の拝殿の横にあった門です。左側塀の間にある門です。桁なしで直接屋根を支えているようです。

 もう一つは冠木の上に梁を乗せてからその上に本格的に屋根を作るというものです。
 大矢田神社拝殿奥の門です。一番左の切妻型の屋根がそれです。神様が通るところでしょうか。


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2021年04月11日

紅葉の東海三山 番外編4 建物の様式(屋根の飾り)

 建物の飾りに注目することにします。
<千鳥破風>
 屋根の斜面上に、妻面上部に見られる「へ」の字形に屋根を載せていることがあります。妻面で一番高くなっているところを破風(はふ)といいます。妻面で風の影響を一番強く受ける場所です。この破風と同じものが屋根に乗っているという感じになります。お城では、2つ以上並んでいることもあります。これを千鳥破風とよんでいます。妻面上部の破風を千鳥破風というのはあまり聞いたことがありません。屋根側面のもに対しては使われているようです。明かり取りに使われていたのが起源という話も聞いたことがあります。
 尊永寺本堂の例です。

<唐破風>
 三角形ではなく上に緩くカーブして膨らむように盛り上がっている形のものもあります。唐破風といいます。唐と名前がついていますが、日本独自のものだそうです。こちらは屋根の真ん中ではなく先端の軒や庇が作られることが多いようです。屋根全体をこの形にするとしたらかなり大仕事になりそうです。
 大矢田神社の蔵(?)です。庇にしては屋根より大きすぎます。屋根なのかな。
大矢田神社 蔵


<向拝>
 平入りの建物で、入口にあがる石段の部分を覆うように軒を伸ばしていることがあります。前に出ている部分を向拝といいます。向拝の先端が唐破風になっていることもあります。
 寂光院本堂です。


 −−− 飾りについて −−−
<懸魚>
 切妻造や入母屋造の建物の妻面の破風のすぐ下に、彫刻の施された板が飾られていることがあります。この板を懸魚(げぎょ)といいます。元々は火除けのお守りで、魚が彫られていたようです。様々なバリエーションがあって名前もあるようです(覚えきれない)。
 大矢田神社拝殿のものです。猪目懸魚のようです。横にも2つ下がっています。真ん中ものを拝懸魚または本懸魚(おもげぎょ)、横にあるものを降懸魚(くだりげぎょ)または脇懸魚、桁隠しと言います。
大矢田神社 懸魚

 懸魚を固定する棒のようなものが真ん中に突き出ています。これに付随する飾りを含めて六葉といいます。棒の部分が樽の口、飾りは菊座といいます。

<軒飾りなど>
 軒先などにもいろいろな彫り物が見られます。日光東照宮の三猿や眠り猫が有名です。竜はよく見かけます。唐獅子とか色々あるみたいですが今は勉強中です。
 寂光院本堂向拝の彫り物です。竜に着色されています。

 今回覚えたのはかえるまたというものです。確かにかえるの足に似ています。大矢田神社本殿のものです。
大矢田神社本殿 かえるまた


posted by ヨッシン at 23:55| 雑記

2021年04月10日

紅葉の東海三山 番外編3 建物の様式(屋根の形)

<切妻造>
 屋根の形に注目します。屋根を平にしておくと、降った雨は屋根の上にたまって雨漏りの原因となります。そこで屋根板をななめにします。そうすると雨水は流れ落ちて屋根にたまらなくなります。建物の中心線で左右に振り分けるのが一般的です。建物の中心一段高いところに棟木を渡してここから左右に屋根板をはります。棟木は建物のどちらかの壁と平行に渡ります。このような建物の造りを切妻造といいます。住宅家屋では普通に見られる様式です。
 豊川稲荷禅堂を例に挙げておきます。屋根の高いところから左右に振り分けられているようすがわかります。入口の上に庇がついていますので少しわかりにくくなっているかも知れません。

<寄棟造>
 このような建物の場合、棟木に直角方向にある壁の面を妻面(または妻)といいます。写真の建物で見えている側が妻面です。
 妻面には雨がたくさんかかります。そこで雨の影響を少し減らそうと工夫がなされた屋根の造りがあります。一つは屋根の傾斜を妻側にもつけるというものです。屋根の形は台形2枚と三角形2枚があわさった形になります。このような建物の形を寄棟造りといいます。
 鳳来寺本堂を例に挙げます。

<入母屋造>
 もう一つは、豊川稲荷禅堂の庇を左右に大きくして屋根とつないでしまうというものです。反対側の妻面も同じようにします。下半分は寄棟造で上半分は切妻造と二つがあわさった形になります。
 例として尊永寺諸尊堂北谷寺をあげます。今回まわった寺社の建物の大半はこの形でした。

<宝形造>
 寄棟造で建物の四辺の長さが同じだと台形をした屋根はなくなり全て三角形になります。このような場合は宝形造といいます。方形造と書くこともあります。ほうぎょうづくりと読みます。お寺の建物の場合、屋根の一番高いところには宝珠とその土台(露盤)が乗ります。舎利などを納める建物に多いそうです。
 写真は池田町の凉雲寺です。

 お寺にある宝形造の建物で、2階以上の高さがあり、各階毎に屋根を設けているものを層塔と言います。お城もそうですが、この屋根が何段になっているか、たとえば3段になっていれば3層(構造)といういい方をします。3層の層塔は三重の塔です。他にも五重塔や十三重の塔といったものもあります。
 横蔵寺の三重の塔を例に挙げます。

 宝形造の変形のもう一つの例です。建物の平面形が六角形や八角形という建物もあります。八角形の例として豊川稲荷納符堂を例にあげます。

 諏訪大社下社秋宮の神楽殿のように三方切妻という建て方もあります。基本的には切妻造の建物を組み合わせているだけです。切妻、寄棟、入母屋といった構造は日本建築でも必ず見ることができるようです。

−−− 妻入りと平入り −−−
 次に、建物の入口の位置に注目する事にします。主となる入口がある場所は、妻面かそうでない面かのどちらかになります。妻面に入口のある場合は妻入り、そうでない場合は平入りと言います。
<妻入り>
 大矢田神社拝殿です。五角形の面に入口があります。切妻造の場合、入口から雨が吹き込みやすいという欠点があります。

<平入り>
 華厳寺揚輝堂です。間口は広く取れるのですが、出入りの時に、屋根から落ちてきた雨水がかかるという欠点があります。


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2021年04月07日

紅葉の東海三山 番外編2 建物の様式(屋根の素材)

 旅行などでいろいろな建物や門を見た時に、建て方の特徴に注目することがあります。様式についての理解や各部の特徴などがわかってくると、建物の見方も変わってきます。今はまだ勉強中といったところですが、理解できている範囲で今回の旅行で見た建物を使ってまとめてみることにします。といっても、旅行中に詳しく見ていなかったところもあります。例としてあげたものには、造りをしっかり見て判断していないものもあり、間違ったものがあるかも知れません。だいたいこんな感じでというところで見てください。

−−− 屋根の素材 −−−
 まず建物の屋根が何で覆われているかによってわけることができます。素材として一番一般的なものは瓦で、このような屋根は「瓦葺き」屋根といいます。他にも鋼板葺き、茅葺き、こけら葺き、檜皮葺きといったものがあります。
 鋼板は寺社では銅板を使っているものが普通でした。ところが、銅板がさびてできる緑青は有毒だということなのか、最近は使われなくなってきているようです。見ただけでははっきりしないのですが、最近の家屋に多いガルバリウム鋼板を貼りつけているようです。これも一応銅板葺ということにしておきます。
 各素材の屋根を順番に見ていきます。
<瓦葺き>
 普通にいう瓦屋根です。例として華厳寺本堂をあげます。屋根に並べられた瓦の種類については勉強中です。鬼瓦とか棟瓦平瓦くらいまでならわかります。

<銅板葺き>
 銅板ではなく鋼板で葺かれた屋根は比較的たくさん見ました。変わったところでは、鹿児島仙巌園では錫葺きの屋根がありました。
 華厳寺鐘堂と三十三所堂の例を挙げておきます。檜皮葺やこけら葺を模して鋼板を何層にも重ねています。

<檜皮葺屋根>
 檜皮というのはヒノキの幹の皮のことです。これを薄く剥いで平たく伸ばしたものを屋根に並べていきます。
 大矢田神社参道沿いにあったヒノキです。幹が赤くなっています。樹皮をはぎ取られた後はこのように赤くなります。この木は何年か前に檜皮を採られたのかも知れません。の夫婦樹の写真の右側はヒノキなのですが、幹が赤っぽい色をしています。皮を剥いだ直後は真っ赤な色になります。
ヒノキの幹

 檜皮葺屋根の例です。比較的多くのところで見ました。小国神社拝殿を例に挙げます。 

 茅葺き屋根、こけら葺き屋根は今回は見ませんでした。こけら葺きはふだんでもあまり見かけません。一度説明のあった建物を見たことがあります。それがどこだったのか思い出せません。こけら部分だけを写したような記憶があるのですが過去の写真を見直しても見つけることができませんでした。鶴ヶ城の麟閣か偕楽園の好文亭あたりだったような気がしています。

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2021年03月31日

3月を振り返って

 大阪でコロナ新規感染者数が急増しています。第3波といわれていた時期に緊急事態宣言がだされ、期限よりもよりも早くに解除されていました。逆に首都圏は更に2週間延長となり、21日に解除されています。大阪の時もそうでしたが、このころの新規感染者増加のようすを見ると、
首都圏は少なくなっているものの、まだ完全に少なくなったという状態ではなかったようです。
実効再生産数の変化を見ると、いったん下がっていたもののじわじわと上がり始め、このままでは新規感染者数が増えるのではという状態になっていました。さらに、地方ではどんどん増えていっているようすが見えていました。結果的にはその通りになっています。
 こういう状態のなかで宣言を解除したのは、直後に迫っていたオリンピック聖火リレーの開始が関係しているのではと取りざたされています。宣言がでているなかで、人が集まるようなイベントを始めにくいのははっきりしています。結局、状況をしっかり判断することもなく、聖火リレーが始まってしまいしました。どうしてもオリンピックをやりたいごく少数の人たちが、強引に推し進めているように見えます。各自治体も国には逆らえないのが、島根県以外は中止も検討しているといったところはありません。フォローする自治体が続かなかったのは残念です。
 大阪には、蔓延防止処置が執れるようにするといっています。地方でも大阪レベルに感染率の高いところがありますが、無視されているのはどうしてなのかわかりません。沖縄などは緊急事態宣言が同時にでていてもおかしくない状態でした。
 大阪では2週間以内に聖火リレーが通過します。それまでには解除はできないでしょう。このような処置がでているなかでリレーをするつもりなのでしょうか。中止にはしないような気がします。
 他県の状況を見ていても無観客でやるとか、窓から見るのもダメとかとんでもないことを言い出しています。オリンピック開催の雰囲気を盛り上げるというのが嘘のように聞こえてきます。ほんとうに聖火リレーは必要なのでしょうか。
 感染の状況を見る限りでは、オリンピック延期を決めた去年よりも悪くなっています。去年は情報がなかったということも影響しているかも知れません。それでも、できると判断できる材料は現時点では全くありません。
 世論調査では3分の1の人がオリンピックは中止すべきと考えています。延期すべき、開催しようという意見で分け合っています。ネットで見ると中止が8割近くになります。この差がどうして生じたのかわかりませんが、同時に書かれているコメントのほとんどが中止に関するものです。開催するといっても何が何でもやるべきいう意見はごく少数で条件付開催の意見が主なのに対して、
絶対にしてはいけないというのが大半のような感じがします。
 開催者には国民の声を聞こうという姿勢が全く感じられません。女性の割合を増やすために理事を増やしすぎて身動きが取れなくなっているようです。欧米の意見ならよく聞くみたいですから、こちらに期待するしかないようです。ところが欧米ではワクチンの接種が順調に進んでいてその効果も出始めているようです。感染者が少なくなれば反対とは言いづらいでしょう。日本ではワクチン摂取状況はどうかというと、やっと始まったばかりです。オリンピックの頃でも今の欧米の接種率ほどもいってなさそうです。

対策はやっているようで、何もないどころか、やっているといえば人との接触を増やすことが主体、あげくに打つ手がなくなったから緊急事態宣言は解除では、いつまで経っても収まらないのではと思えてきます。
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2021年03月12日

大阪公立高一般選抜検査 地学関係問題の感想

 大阪府公立学校一般選抜学力検査の問題で一つだけひっかかっている所があります。この点について述べてみることにします。福井県三国港の突堤についての文章です。まず文章のコピーを載せます。図面は本文の横に上下に並べられていましたが、場所の関係で下に横に並べて載せています。
2103110000.jpg

 ここで起こった変化に書かれている内容について、そうなのだと思えばそれでおしまいです。どうしてそうなったのかというのが、気になります。2つのことが書かれています。波が弱くなったということと、土砂が(沖合まで)流れていきやすくなったということです。

 1つ目の波が弱くなった原因はなかなか気づけませんでした。さんざん考えてわかったのが、書かれている地図は右が北になっているということです。冬の季節風によって押し寄せてくる波は東西方向に延びる突堤で防ぐことができます。わかり難い地図です。北風による波を防いでいるということを意識していないように見えます。

 2つ目の、流路ができて沖合まで土砂が運ばれやすくなったという点です。突堤が左にカーブしていますから、水の流れは突堤にぶつかるよう(攻撃斜面)に流れていきます。比較的流れが速くなり浸食が起こりやすくなります。沖合への流路は確保できるでしょう。
 ところが、本文には三国港でも土砂の堆積があったと書かれています。同じカーブなら、三国港付近と同様に土砂を運び去るほどの勢いができない事になります。これでは三国港での土砂の堆積を防ぐことはできそうにありません。
 基本的に流路を固定すると、土砂の堆積を進めるのが普通です。天井川がその典型例です。

 流路についても気になることがあります。洪水時に阿賀野川からの流れが新潟沖へ流れていくようすを見たことがあります。泥水はそのままの勢いでもとの流れの幅を持ったまま、海面上をまっすぐ沖合に流れていっていました。川の流れは河口から周囲に一気に拡散しないことがわかります。地球観測衛星の画像を使って河口から沖合にかけての流れを調べても同じようなことが見られます。九頭竜川でも同じことが起こっていそうです。何か特別な理由があるのでしょうか。阿賀野川は流路の長い川の一つで、九頭竜川はどちらかといえば急流といえる川です。関係しているのかな。

 何かヒントをということで、三国突堤について検索してみました。具体的な像が見えてこないのですが、どうも三国港対岸(九頭竜川左岸)に柴を束ねてT字型になるようなものをいくつも置いたようです(向きが不明ですが)。これによって川の流れを右岸側に集めて三国港付近での流れが速くなるように流れを制御したようです。粗朶(そだ)水制と書かれています。その先にカーブした突堤があればその流れの勢いで沖合まで土砂を運んでいきそうです。
 突堤はありませんが、これとよくにたことを江戸時代にもしていたようです。しっかりとした堰を上流部に作っていたため、明治初期の洪水時にさらにその上流部が氾濫しました。川が氾濫した原因が堰にあると考えられ、洪水が再び起こらないようにということで取り払われました。その結果起こったのが三国港での土砂の堆積です。粗朶水制で洪水が起こらないのか心配になってきます。それほど大きなものではなかったのかも。具体的なことはネットの記述からはわかりません。

 以上をふまえてみると、三国港での土砂の堆積がなくなったのは、突堤のみではなく同時におこなわれた周辺での治水工事が関係していることがわかります。どちらかというと、治水工事が主で突堤はとってつけたようなもののような気がします(こちらの方が手間暇がかかったようです)。
 このことからすると、(3)考察として記述する内容として「エ 突堤は、河川の流れの勢いを維持し、土砂を三国港付近の水底に堆積しにくくしている」は正解なのでしょうか。左岸側の粗朶水制がなければ、土砂の堆積は続いていたと思われます。江戸時代の水流制御は功を奏しています。限りなく出題ミスに近いような気がします。Fさんが考えた事として正解とするのでしょうか。
 突堤は作った割りにはそれほど効果がなかったと書かれているページもあります。そもそも建設による変化として書かれている内容も本当なのかどうか。ネットでの記述からははっきりしません。

 チェックしたページとURLです。
福井県建設技術協会:三国港突堤の紹介
http://www.zenkenfukui.jp/inheritance/mikuni.php
一般社団法人日本埋立浚渫協会:21世紀に伝えたい『港湾遺産』
https://www.umeshunkyo.or.jp/104/07mikuni/page.html
土木学会:選奨土木遺産 三国港エッセル堤の解説シート
https://committees.jsce.or.jp/heritage/node/331

 更にいうなら、この考察は根本的な所では地学との関連について微妙な感じがします。地学(理科)として考えないといけないのはどうしてそのような現象が起こるのかということではないでしょうか。大きな波がやってこない理由とか、流速が維持されたのはどうしてかということ考えるのが筋なのではないでしょうか。その点でいえばここで出された問題はどちらかといえば地理(社会)で取り上げられるような内容かなとは思います。解答するには文章を読めば何とか答えられますが、その背景の理論的な所で引っかかりを感じます。理由がはっきりとわからないものはなおさらです。




posted by ヨッシン at 00:00| 雑記