明治維新にあたって、伊予松山藩は新政府軍についたのに対して、備中松山藩は幕府軍につきました。そのためその後の廃藩置県で伊予松山は優遇され松山県と名乗れたのに対して、備中松山はその下と見なされたため松山と名乗れずやむなく高梁県と名前をつけたそうです。城の名前はそのまま使われ、町の名前だけが変わったようです。
さて、天守を出てからの行動です。まだ時間がありますから、お城の裏手に行ってみることにします。天守を出ると左側に東御門が見えます。その左の石段を登っていくと2階櫓に着きます。

本丸を通り抜けて、南御門から二の丸に出ます。門を通りぬけて振り返って見た天守です。

本丸の石垣に沿って裏手に回っていきます。下からあがってくる道と合流するところにでます。門があったような石垣の組み方がされています。搦め手門跡と書かれています。

裏手に回ると石垣に囲まれ一段高くなったところがあります。説明では水の手門脇曲輪と後曲輪と書かれています。

後ろを見ると二重櫓が下から見上げる形で見えます。岩盤の上に直接石垣が組まれ、一体化しているようです。すごいと思ったのですが、その部分の写真を撮るのを忘れていました。

その横に本丸に入って行く門が見えます。腕木御門です。本丸にいたときは、スルーしていました。写真には何枚か一部だけが写っています。

さらに奥の方です。石垣を回るように道がついています。ここにも水の手門と呼ぶ門があったようです。ここから見る限りでは道があるというより、行き止まりっぽく見えます。

続く.........