この頃の朝鮮半島では、百済が唐・高句麗の連合軍に滅ぼされ、倭国からの応援軍も白村江で大敗しています。連合軍が国内にも攻めてきたら大変ということで防衛のための施設がたくさん作られた時期です。九州太宰府の入口には巨大な水城(土手と堀)が作られ、九州の大野城・基肄城・鞠智城を始め大和までの間にいくつかの城が作られました。鬼ノ城はそのうちの一つではないかとされています。問題は、このあたりに作られたという文献上の記録が残っていないことです。
城に向かって登っていくと最初に見えてくるのが角楼です。攻めてきた敵を最初に迎え撃つ施設です。

そのまま進んで行くと西門が見えてきます。

西門の土台部にある土壁の表面です。地層のような模様が見えています。土を敷き詰めては押しかためてということを繰り返して作られたようです。版築といいます。

西門を下から見上げたところです。模様を描いた板のようなものが並べられています。盾だそうです。柵の中で持って防御に使ったのですが、そのままだと見えないということで、外に飾ってあるそうです。吉野ヶ里でも似たものを見たような。

門の前から見える景色です。添乗員さんが、讃岐富士が見えるといっていました。かすかですが見えています。飯野山という名前を確認したかったのですが、そこまでは知らなかったようです。

門の中です。かなりの奥行きがあります。

内側に入って、振り返って見たものです。上にあがることはできません。建築基準法上の問題があるようです。

角楼までいって見た学習広場方向です。真ん中に展望施設があります。そこにたくさんの人がいるのが見えます。

続く..........