2019年03月05日

西郷どんは島流し 84   余談など(地形と地質)

<サーフベンチ>
 ふつう、砂浜は波打ち際から陸地側にかけて緩く傾斜しながら高くなっていきます。徳之島の与名間ビーチでは、その途中同じ高さの所に、腰掛けるのにちょうどいいくらいの高さの段がずっと続いています。
与名間ビーチ

 人工的に作られた台のように見えますが、岩質は、珊瑚礁なのか琉球石灰岩なのかはっきりしませんが、そういった石灰質のものでできています。段差を作ったとしてもここを降りるのには少し高いような気がします。何か奇妙なものを見たという感じがしました。
 その後、徳之島・沖永良部島の海岸を歩いてみて気づいたことは、珊瑚礁か琉球石灰岩のような岩が、海面から1mくらいの高さで平らに露出していることです。海食台にしては高いという点で、これも奇妙に感じていました。
 解決したのは、沖永良部島沖泊海浜公園を歩いていたときです。潮だまりの中に、礁性サンゴのかたまりがありました。そこでピンときたのはサーフベンチという言葉です。珊瑚礁のできるようなところで海食台が作られるときには、波打ち際で珊瑚礁が発達することによって、普通の海食台よりも高いところに平坦面が作られます。このような平坦面をサーフベンチといいます。
 サーフベンチをそれと意識して最初に見たのは北大東島です。ここで見ているのに、なかなか気がつきませんでした。この時は満潮に近かったようです。思い返してみると、今回の旅行で多くの海岸で見ていたようです。特に沖永良部島ではたくさんありました。
 気がつかなかったのは、宮古島で似たようなものがあったからです。ちがうのはもっと高いところにできていたことです。伊良部島北部白鳥崎、池間島などは海面から数mの高さにありました。この地域のものは、琉球石灰岩が浸食されて平らになった後、隆起してできたもので、隆起海食台といっていいものでした。直前にこのようなものを見慣れてしまっていたため、こちらの方だと思い、なかなか気がつかなかったのでしょう。徳之島の伊仙崎もこのような地形でした。
 徳之島の手々海浜公園やみやどばるでは、後から考えればサーフベンチとしてよいものでしたが、浸食されきれず残された大きな岩が残されていて、形の判別を難解にしていました。
 沖泊海浜公園ではサーフベンチの陸地側に、浅い海が入りこんでいました。沖合に珊瑚礁があって、その内側に広がる海は礁湖(ラグーン)といいます。礁湖ができていて、さらにその内側に陸地があるような珊瑚礁の形態は、堡礁といいます。典型的なのは伊良部島のカタバルイナウでしょう。一般的には地盤が沈降しているところに見られるとされています。徳之島の瀬田海海浜公園や沖永良部島の屋子母ビーチなども堡礁の例としてみるとができます。
 沖泊海浜公園の背後には高い崖があります。これは海食崖といえます。海食崖ができるのは、強い波による浸食作用が起こったためで、珊瑚礁によって守られた海岸ではあまり発達できそうもありません。一時期、珊瑚礁ができなかったときがあって、その時に海食崖や海食台がつくられ、その後再び珊瑚礁が作られるようになったということでしょうか。サンゴは暖かくなりすぎても枯死するようです。
 崖際の満潮時の波打ち際にはわずかですが、砂が集められビーチのようになっていました。沖永良部島の海岸沿いに集められた砂はわずかで、海底は岩場でした。このようなところで海水浴をするとなると、足の裏を尖った岩で切ってしまいます。
沖泊海浜公園

 そのためなのか、海が浅いせいなのかよくわかりませんが、瀬田海海浜公園では人工的に掘り下げてプールを作っていました。北大東島でも海軍棒近くのサーフベンチに人工的なプールが作られていました。これと、与名間ビーチの段差とを見比べてみると、何となく似ているような気がします。与那間でもプールが作られていたと推定されます(浜の奥に町中で見かける形のプールもあります)。こちらの方が砂が多く半分埋まっている点で違っています。
 今回は、だいぶサーフベンチの上を歩き回りました。石灰岩が溶かされて、岩の上部が尖っています。底の厚いトレッキングシューズを履いていたおかげで、けがをする事もなくあるくことができました。代わりに靴は傷だらけになりました。

<鍾乳洞と琉球石灰岩>
 沖永良部島では、観光鍾乳洞である昇竜洞に入りました。ここは日本の鍾乳洞九選の一つだそうです。三大鍾乳洞でもだいぶ見解が分かれますが、9つとなると、聞いたことのない鍾乳洞も入ってきます。何かの売りがあれば納得できるのですが……。昇竜洞はフローストーンの規模が最大級だそうです。
 沖永良部島ではほかにも鍾乳洞がたくさんあって、洞窟探検のツアーなどもあるようです。住吉の暗川や知名のジッキョヌホーを初めとするたくさんのゴー、和泊の石川・ホウシ橋の下なども鍾乳洞です。

 沖永良部島で鍾乳洞が多い理由は、知名のシャーゴを見るとよくわかります。
 沖永良部島を初めとして南西諸島で鍾乳洞を作っている岩石は琉球石灰岩です。一般に石灰岩が溶かされると、地下水はさらに地中深くへとしみこんでいき、深いところに流れ込んでいきます。このようなところに鍾乳洞ができると、見つけるのは難しくなります。
 ふつうに見られる鍾乳洞は、地下水面の高さにできます。しみこんだ雨は、それよりも深いところに入っていかないからです。地下水面の高さは、近くを流れる川の河床面の高さとだいたい同じになります。海の近くでは海面の高さです。沖永良部島のような島ではだいたい海水面と同じと考えていいでしょう。南大東島の星野洞も海面と同じ高さにできていました。
 シャーゴについてみていきます、すぐ海側で砂岩や泥岩の地層が露出していました。このような岩石は、石灰岩に比べて、水をとおしにくい性質があります。地下にしみこんだ水は、このような不透水層の上を流れることによって、その場所に鍾乳洞を作ります。シャーゴの近くでは海面より少し高いところに地下水の流れやすいところがあり、鍾乳洞が作られ、その出口が湧水口となっているのでしょう。
シャーゴ

 知名近辺にはこのような泉がたくさんあります。地下の不透水層となる岩石は見られないものの、全て同じ成因でできたと考えられます。住吉の暗川はこのようにしてできた鍾乳洞の天井が崩落して地下水の流れが見られるようになったものです。
住吉暗川

 シャーゴの海岸で見られたのと同じような岩石が島西側の最高峰大山近辺にも露出していました。知名から大山山頂まではなだらかな斜面になっています。このようなことを総合して考えてみると、この間にある昇竜洞や水連洞付近に見られる琉球石灰岩はそれほど厚くはないでしょう。そのため、石灰岩底部にできる鍾乳洞も浅いところにあり、その分天井部が陥没しやすくなり、鍾乳洞が露出しやすくなります。
 知名や和泊では鍾乳洞による湧水があります。簡単にきれいな水が得られることから町が発達したのでしょう。逆に北海岸では、越山等の中軸部付近をのぞき鍾乳洞は深そうです。冬の北風が強くあたりそうなこともあって町が大きくなれなかったのでしょう。溜池も北側にはたくさん見られます。

 徳之島犬の門蓋のめがね岩は天然橋です。石灰岩地域にできるものを特にカルスト橋と呼ぶこともあります。ここのものはカルスト橋といっていいでしょう。鍾乳洞の天井の大部分が崩落し、一部だけ取り残されてできたものです。めがね橋とそこに通じる通路の部分は、もとあった鍾乳洞の一部になります。
徳之島犬の門蓋のめがね岩

 ちょっと変わっているのは、これが石灰岩の断崖の中段にある事です。このような場所に、どのようにしてできたかを考えてみます。
 昔、海面が今から10mほど高かった頃があったのでしょう。地盤が沈降していても同じです。この頃の海面の高さに、鍾乳洞が作られます。洞は大きくなり、終いに天井部分が陥没して橋のようなものが残されます。その後、海面が下がるか地盤が隆起するかして、崖の中段に天然橋が高いところに残されたのでしょう。
 この鍾乳洞には、鍾乳石を初めとする石灰質の沈着物が見られません。鍾乳洞の形成初期には、石灰岩が溶かされる一方で、鍾乳石などはできないようです。ある程度洞窟が大きくなり、地下水が流れ去りやすくなり、風が吹き抜けるようになると、洞窟内は乾燥してきます。そのようになると鍾乳石ができやすくなります。
 ここのものは、どんどん削られていって、鍾乳石ができ始める前に崩落し、その後の隆起で、鍾乳洞がそのままの形で取り残されたのでしょう。海岸近くにある事を考えてみると、同じ場所の海面近くの高さにある洞窟のように、地下水ではなく、海水が入りこむことによってできたものかも知れません。この場合も天井からの水滴の落下が少ないので、鍾乳石はできにくいようです。鍾乳洞の底面と同じ高さの段が、鍾乳洞前に広がっているのも、海面近くの洞窟前とよく似ています。

 沖永良部島笠石浜の琉球石灰岩は明らかに異なる葉理構造を持った層が積み重なっていました。同じ石灰岩でもできた環境はいくつかの場合があるようです。徳之島なごみの岬やみやどばるでもはっきりとはしていませんがそのような構造がみえました。
沖永良部島笠石浜の琉球石灰岩

 北大東島では、明らかに時代の異なる二つの石灰岩が積み重なっていると報告されています。単純に琉球石灰岩をしていますが、いろいろなタイプや時代のものがありそうです

<化石>
 沖永良部島では2ヵ所で大型有孔虫の化石産地を見ました。下平川のものはオパキュリナとされています。沖泊のものも似ていますので同じ時代の地層と考えていいでしょう。
 本州などではオパキュリナは、内湾でできた新第三紀中新世の地層から、当時の示準化石とされているミオジプシナと一緒にでてきます。この頃は本州はマングローブの広がる浅い海だったと考えられています。このようなことからオパキュリナも中新世の示準化石として使われることがあります。
 沖永良部島の周辺の地層(知名にあった岩石など)は、白亜紀から古第三紀にかけての海溝で作られた地層です。オパキュリナの地層ができるまでの間にだいぶ浅くなっていたことがうかがえます。紀伊半島では、古第三紀の海溝でできた地層のすく近くに新第三紀の海溝でできた地層があります。古第三紀の地層は浸食されてその上に新第三紀の浅い海の地層(熊野層群・田辺層群)がたまっています。沖永良部島でもこのような構造になっているのでしょうか。
 産総研地質総合調査センターの地図にはこのような地層は記されていません。沖泊で見つけた大きな有孔虫化石(サイクロクリペウス)が琉球石灰岩ができる前にたまった地層に産出するものににているということもあります。だとすると洪積世にできたことになります。この地層は、中新世か洪積世のどちらなのでしょうか。疑問になってきます。いろいろ調べている内にわかったのは、サイクロクリペウスとオパキュリナは同時に産出するようです。さらに、オパキュリナは、中新世の一つ前の漸新世から現在の海岸の砂の中にまで含まれているようです。中新世の示準化石というのが間違いのようです。

−− 完 −−

posted by ヨッシン at 23:59| 旅行記