2018年11月17日

大陸接点・北部九州 67   感想・余談など 2/2

<吉野ヶ里遺跡と邪馬台国>
 吉野ヶ里遺跡を見た感想です。遺跡からは、あまりたくさんの人の気配が感じられませんでした。復元された建物が、その一部だけというのもあるのかも知れませんが、建物群の分布範囲を広げて考えてみてもだいぶ足りないような気がします。逆に、住居用建物よりも、倉庫の大きさ、数が目立って多いような気がしました。一家が収穫したもので、倉庫がいっぱいになるとは思えませんし、中のものを1年で使い切るには多すぎるような気がします。一家といわれる人たち以外にも、倉庫に入れるものを作ったり、蓄えた食料を消費する人がいたように思えます。
 建物を作るにしても、材料集めから、加工や施工の手間などを考えるとかなりの人手がいりそうです。一度作れば、何十年と持つものですから一時的に人を集めてくればいいのかも知れません。それでもそういう人達の居場所が見えてきません。
 大人クラスの人の住居として、一部の竪穴式住居が割り振られています。それからすると、このような竪穴式住居に住んでいたのは、かなり身分の高いものに限られのかも知れません。農作業に従事する人達は、このまわりか、別の場所でもっと簡素な建物にいたのでしょうか。
 環濠を守る兵士とかもたくさん必要です。詰め所にいきなり降って湧いたように集まってきます。こういう人達もどこから来たのか、全く見えてきません。

 吉野ヶ里遺跡では、主祭殿と思われる建物が見つかっています。占い(神のお告げ?)によって政策を決定する場所だったようです。これは邪馬台国について魏志倭人伝に書かれていることと一致します。記述に基づいてそう復元したのかも知れませんが、なんとなくここが邪馬台国だったようにも見えてきます。実際のところはどうなのでしょうか。邪馬台国について感じていることを書きます。
 魏志倭人伝には、邪馬台国までの行程が書かれています。途中、対馬国一支国末盧国伊都国奴国まではだいたいの対比ができています。それとの位置関係で見ると、吉野ヶ里遺跡は、末盧国が一番近く奴国をわざわざ経由する必要がありません。方角的にも合わないようです。
 倭人伝には卑弥呼の死後大きな塚を作ったと書かれています。吉野ヶ里遺跡には墳丘墓があります。ここには数人の王とみられる人達が埋葬されています。卑弥呼のために作ったとは考えにくいようです。
 また、邪馬台国と対立していた狗奴国をはじめ多くの国があったとも書かれています。そのどれもがその位置がわかっていません。吉野ヶ里はそのような国の中の比較的大きな国だったと考えた方がいいでしょう。佐賀平野一帯にも国と思われる遺跡がいくつか見つかっているようです。
 支石墓のことを調べていると、それを作る文化についても言及しているものがありました。朝鮮半島にそれを作る文化を持つ人達が移り住んできたというものです。もともと朝鮮半島に住んでいた人達は体に入れ墨をする習慣があったようです。そういう文化も受け継がれているとすると、邪馬台国では入れ墨をすると書かれていますから、支石墓を作らない文化になります。支石墓は北九州海岸沿い唐津から長崎にかけて分布しています。邪馬台国はそれ以外の地域にあったということになります。吉野ヶ里遺跡は支石墓ではありませんから、邪馬台国ではないとされたわけではありません。この問題も、日本では支石墓と甕棺と併用するなど独自の様式が見られますから、入れ墨と結びつける必要はないのかも知れません。

<フェリー>
 旅行の直前に、フェリー会社から連絡があり、使う予定にしていたフェリーが欠航となったということです。原因は、2月25日からドッグ入りしていたものの、「造船所による作業不備で故障が発生した」ため、検査が終わらないとのことでした。予定していたものより3時間ほど前に出発する便があったのでそれに変更しました。連絡が来たのが、出発の1週間ほど前なので、返事はすることができましたが、旅行出発後にわかったのなら連絡がつかなくなっているところでした。おおきく変更しないですみました。
 といっても、最終日の行程はちょっと慌ただしくなりました。道を間違えたり、道路が渋滞していたりとかで、よりかけていた伊都国博物館には行けずに終わりました。予定の便でもどうなっていたのかはわかりません。たぶんぎりぎりまで、いろいろとまわって最後は慌ただしくフェリー乗り場に着いていたことと思われます。
 別会社の神戸着の便で帰るという方法はあったのですが、神戸が遠いということで二の足を踏んでいました。大阪に帰ってきてからのことで考えると、南港からだと渋滞する地道を通るのは避けられません。神戸からだと、家の近くのICまで高速道路を利用することができます。出発もちょっと遅めでした。こちらの方がよかったのかも知れません。検討課題としておきます。
 使ったフェリー会社のフェリーが、帰ってきてしばらくしてから、航行中にトラブルを起こし動けなくなっていました。フェリーだったらいつでもいけるというわけにはいかないようです。

<GPSロガー>
 帰ってきてから、GPSロガーの記録を見ると、1km移動するごとに記録するようになっていました。これだと、大雑把すぎてみていても必要なことはほとんどわかりません。たとえばどこかに立ち寄って引き返したとします。ロガーに記録されていたのは、立ち寄り所から1km以内のどこかの地点です。そこから引き返したことになっています。
 出発前に、ロガーにたまっていたデータを全て消去しました。その時に、記録方法もリセットされていたようです。データ消去などの操作をした後は、記録方式の確認もしておく必要がありそうです。
 内蔵電池で使用中は、1秒ごとの記録が続いています。この記録でなんとか行き先の確認はできました。それでも、記録データが大量になるので、何とか減らす方法を考えないといけないでしょう。ニッケル水素電池では電圧が低いのでしょうか。

<カメラのトラブル>
 今回も初っぱなに、カメラの撮像素子にゴミが大量についてしまいました。出発前に吹き飛ばしたはずだったのです。今回は望遠鏡につなぐ時以外はレンズ交換をしていませんから、ミラーハウスに残っていたゴミが移動したようです。掃除が雑になっていたようです。次からは入念にやっておくことと、ゴミのチェックはできるだけこまめにやった方がいいようです。
 一度、データをSDカードに書かなくなりました。正確には書き込むのに非常に時間がかかるようになっていました。記録中はランプが点灯します。それがなかなか消えないのでおかしいと思い調べてわかりました。その後は、カードを交換して使いました。書かなくなったのは、マイクロSDカードで、変換アダプターに入れて使っています。前にも「カードが異常です」が連発した事があります。あまりこの方法は使わない方がいいのかも知れません。これからはできるだけSDカードを使用することにします。

<イベント>
 旅行先ではいろいろなイベントが企画されていました。そのほとんどが、3月17日からでした。これは大阪に帰ってくる日です。この日からというのは、春休みにあわせて開催されたためでしょうか。イベントとして覚えているのは「肥前さが幕末維新博覧会」と「装飾古墳一斉公開」です。これにあわせて、佐賀市では、幕末維新記念館なども開館したようです。
 出発を遅らせようかなとも思いましたが、月明かりのことあるし、人が多いのもどうかということで、予定は変更しませんでした。どちらにしても、ゆっくり見ている時間はなかったようです。またの機会ということにしておきます。

<経費>
 つかった経費です。500円単位でそろえています。

交通費  57500円
 内 フェリー  39500円
   ガソリン  11000円
   有料道路   6500円
   駐車料     500円
入館料   3000円
宿泊費  40000円
みやげ   5500円
食費    2000円
その他    500円
補助など −7000円
−−−−−−−−−−−
合計  101500円

補助などは、宿泊補助、クーポン券、ポイント使用によるものです。
車の走行距離は970kmでした。

−− 完 −−


posted by ヨッシン at 23:49| 旅行記