今回の旅行も、いつも通り、見知らぬところに行って、そこにどんなものがあるのかみたいというのが主目的です。今まではふらっと行って、たまたま目にしたものを見に行くという形態でした。何もなく通り過ぎてしまうだけ、という場所もたくさんありました。
今回は何もなかったらということで、事前に何があるか下調べはしておきました。ほとんどがその調べた場所に行っていたことになります。立ち寄り地については、特にこれといってきめているものはありません。地学関連のものがあればまず優先です。それ以外については、自然景観や歴史的遺物などが中心になります。これと野生生物の観察が入ってきます。逆にグルメとか芸術芸能といったものはパスになります。
今回の旅行について、なにかテーマになりそうなものを探してみます。最初に見たものの順に列挙します。
「戦国時代の島津氏の台頭に関係する遺跡(高城跡、高城古戦場)」 飫肥城とか伊集院(前々回の九州)とあわせると物語ができそうですが、今回だけ、それも1ヵ所ではテーマにはならないでしょう。佐賀城、名護屋城も見ていますが、城跡見学というには時代がばらばらです。
「古墳時代の九州」 川南古墳群と岩原古墳群(装飾古墳館)、清原古墳群(江田船山古墳など)を見ています。川南古墳群は、生目古墳群や西都原古墳群とあわせてみると、この付近で文化が栄えていたのがよくわかります。美々津からの神武東征船出との関連もありそうです。熊本県にも独自の古墳がたくさんあるようです。比較して考えるのもありそうです。それには、日向側が今回は川南古墳群だけではテーマにしづらいようです。
「滝」 たくさんの滝を見てきました。最初の尾鈴山瀑布群や山都町の矢部48滝は一部しか見ていません。滝を集中して見にいったというのは気が引けます。
「海岸風景」 美々津海岸に始まって、浜とか断崖を見ています。今回印象的だったのが柱状節理です。これも、初日と最終日だけです。ムツゴロウの場所は海岸といっていいのかどうか迷います。
「歴史的建造物群(町並み)」 これも1ヵ所だけです。廻船船とかその他での他の場所とのつながりもなさそうです。復元した古民家も見ていますが、農家のものが中心です。
「橋」 近くで見たのは通潤橋も含めて4つだけです。
「渓谷」 1ヵ所だけです。ここで、阿蘇の火砕流堆積物を見ています。これと関連のものでいえば、滝やカルデラ、眼鏡橋などたくさんありそうです。
「涌水」 2ヵ所だけです。時間の都合で寄れていないところがたくさんあります。
「鉱山」 どちらかといえばついでに寄ったという感じです。
「縄文遺跡」 2ヵ所見ています。他のものとのつなげるのは難しいようです。
「三重津海軍所」 日本最初の海軍、幕末期の九州、町並みなど他の関連づける題材はありそうですが、それほど大きく広げられないようです。
「吉野ヶ里遺跡」 今回の旅行で最初に目的地として選んだところです。その前後の時代と合わせて、変化を考えてみるのもいいかもしれません。
「ムツゴロウ」たまたまよっただけです。それも肝心なものが見られていません。
吉野ヶ里遺跡か阿蘇火砕流がメインになっていそうです。どちらに中心を置かれているのか検討します。阿蘇山は昨年の九州でメインにしています。変化を持たせたいこともあります。
吉野ヶ里で考えてみます。時代的には、邪馬台国のあったころです。邪馬台国そのものはどんなものだったのかはっきりしませんが、吉野ヶ里遺跡はそれを考える上で大きな足がかりとなります。邪馬台国といえば魏志倭人伝です。大陸とのつながりが見えてきます。唐津付近にはそこに登場する末盧国(末盧館)、行き損ねましたが伊都国(博物館)があります。
大陸とのつながりで見れば、名護屋城は秀吉が朝鮮出兵の足がかりにした場所です。そのときに大名が陣をおいた跡もいくつか見ています。江田船山古墳の出土品も大陸とのつながりが見られるそうです。菜畑遺跡は日本で最初に稲作がおこなわれた場所とされています。大陸から伝わってきたものです。対比する意味で、それぞれの日本本来の形態を示す場所にもいっています。
末盧館には、支石墓というのが置かれていました。糸島半島より西側の北九州海岸沿いにみられるものです。時代的には縄文末期から弥生時代にかけてのものです。元々は、朝鮮半島にたくさんあって、それが日本に伝わってきたようです。甕棺墓をともなっていることがあるそうです。
唐津市の土器崎は神功皇后が朝鮮半島に出兵(三韓征伐)するのに船をだした場所とされています。これが史実かどうかははっきりしていません。装飾古墳館で何気なくもらってきた資料の中に、広開土王の碑について書かれたパンフがありました。これには三韓征伐と似たようなことが書かれていました。よく似たことがこのあたりから始まったのでしょう。
このように見ると、大陸、特に朝鮮半島とのつながりをたくさん見てきたようです。このあたりが、大陸文化が日本列島に入ってくる入口となっていたからでしょう。そういう事もあって、今回の旅行記のタイトルは「大陸接点」としました。
おまけのような話になります。鎖国中の日本は長崎が中国やオランダとの接点となっていました。そこを隔年で警護していたのが佐賀藩です。1808年に長崎に英国軍艦の侵入を許してしまったことや1840年に中国で起こったアヘン戦争がきっかけとなって、佐賀藩は近代化(西洋化)へとつき進んでいきます。その中心になった設備が反射炉の建設(大砲の制作)、洋式軍艦建造でした。三重津海軍所は軍艦建造場所ですし、その指令を出していたのが佐賀城(鍋島直正)になります。主に欧州ですが大陸とのつながりが見えてきます。
最近聞いた説には、秀吉が朝鮮半島に出兵したのも、当時、アジアに力を鼓舞し始めた欧州列強に力を見せつけるためたっだというものがあります。なにか幕末期の佐賀藩に似ているような感じがします。
旅行記ではわかったように書いています。ところが、現地で解説文などを読んでもちゃんと理解できていないことが多いようです。書いてあることが、頭の中を素通りしている感じです。写真を写すときに、その解説文も一緒に写しています。もらってきたパンフレットと一緒に見直して、そうだったのかとかちゃんと書かれていたのにとかということがたくさんあります。博物館の解説も同じです。こちらは情報量が多すぎて頭の中がパンクしてしまっているというのがその原因にあります。
家に帰ってから、写真を整理したり、行ったことのまとめの文章を書いたりするときに、わからないことがたくさんでてきます。そのほとんどは、調べなおしたりしています。写した写真の場所がわからなくてどこだったのか調べたりということも含めて、帰ってきてからの調べ直したりとかまとめたりとかの方に時間がかかっています。
今回特に手間取ったのは、吉野ヶ里遺跡と名護屋城です。どちらも場所が広く、ぐるっと回るだけでも時間がかかっています。まず、写真をみて、それはその中のどのあたりでどの方向を写したものなのかを確定するのに手間取ります。これは船の中から写した写真でも同じです。
場所がわかったら次は、それが何なのか、ここではどういう意味を持っているのかということを整理してみます。この段階でわからないことがあったら調べ直しということが多数出てきます。それでもわからないことはたくさんあります。そのあたりは、適当に処理しています。
今回の旅行記では、前回分の文章の整理が終わるまでだいぶかかったこともあり、まとめ初めがだいぶ遅くなり、何を見たのかが記憶から薄れてしまっていたことも、まとめを書くのに手間取った一因になっています。この文章も書き終わったら、次の旅行記が待っています。これも、どれだけ記憶に残っているか心配です。
ブログの文中では、わかったようにたくさん書いていますが、その大半は、調べ直してわかったことです。帰ってきてから調べたことをどのように書いて区別したらいいのかいつも迷っています。
2018年11月16日
大陸接点・北部九州 66 感想・余談など 1/2
posted by ヨッシン at 23:59| 旅行記