ここに来てわかったのは意図的に城を壊したということです。破却と呼んでいるようです。何のためかというところまでは、解説には一切触れられていませんでした。帰ってから調べてわかったことです。大坂夏の陣の跡、江戸幕府は一国一城令をだします。唐津藩は唐津城があるので、名護屋城を持つことができません。名護屋城を残すには、大きすぎることもあったでしょう。この時に徹底的に壊したようです。
これは馬場から二の丸に入ったところから上の方を見上げてみたものです。本丸南西隅の石垣がみえます。石垣の上部がV字型になくなっていてその下に土砂がたまっています。破却の時に徹底して、石垣まで壊したためだそうです。横に細長い石を使っていたために、壊れやすかったことも関係しているそうです。

そのまま石垣に沿って進みます。二の丸をすぎてその先にあるのが、遊撃丸です。明国からの講和使節を持てなした所だそうです。

遊撃丸にはいって後ろを振り返ってみると天守台が見えます。

二の丸に戻ります。遊撃丸下の石垣に沿って進むと船手口にでます。そこから二の丸に続く石垣があります。石垣には合坂といって城の内側から石垣に上り下りするための階段がつけられています。

二の丸で目印として残されているのが長屋建物跡です。2列の柱跡が示されています。

二の丸を通りぬけたその先にあるのが弾正丸です。浅野弾正長政が居住していたのが、その名前の由来とか。ここに搦手口があります。

搦手口を下りたところからみた、搦め手口です。裏口といっても、道幅はかなり広くなっています。枡形になっています。

搦め手口をでて、弾正丸の下側に沿って進みます。上に弾正丸の石垣が見えます。

林の中に入り、それをぬけた後、馬場下の石垣の横を通ります。ほぼ通りぬけ終わったところから振り返って見た様子です。右側が馬場下の石垣、正面の高台が弾正丸です。

続く......