南西隅櫓から北に延びる石垣の上にあるのが、多門櫓跡です。薄茶色のところが、城を壊したときに、大量の瓦を捨てた場所で、もとは玉砂利が敷かれていたようです。一部分だけそのようすが復元されています。そこと、向こう側の崖のようなところとの間に多門櫓がありました。その礎石が残されています。実物だそうです。
瓦を捨てたところの手前側が一段高くなっていて、玉砂利が敷かれています。こちら側は、旧石垣の石塁と呼ばれています。名護屋城は作られた後、外側に新しい石垣を組んで拡張しているようです。多門櫓はその拡張部に作られたようです。

西側の縁に沿って進んだ先にあるのが天守台跡です。五層七階建ての天守閣があったそうです。玉石の中に見える礎石は心柱を支えていたもので、周囲(手前に3つ写っている)のものは1階の床を支える柱用のものだそうです。

壱岐対馬から朝鮮半島が見渡せる位置に立てられています。天気がよければ見えていたようです。

天守台から振り返ってみた本丸御殿跡です。ここにも広大な建物が建てられていたようです。

本丸大手口まで戻ってきました。一周が終わりです。ここには、旧石垣が埋められる前の状態で残されていました。石垣が折れ曲がっているのが特徴です。外側から攻めてきた敵を迎え撃つために作られたと考えられているそうです。

大手口から降りて、三の丸に戻ります。ここからは本丸の石垣に沿って三の丸を通りぬけ、二の丸の方に向かいます。
正面の一段高くなったところが三の丸南東隅櫓台跡です。ここに上がる石段は、二つ見つかっています。こちら側が新しい方で、櫓台を作っている内に設計変更されて作られたものだそうです。

三の丸櫓台です。名護屋城では最大規模の櫓台だそうです。門礎石も見つかっていることから、三の丸への入り口にもなっていたことがわかります。

三の丸櫓台をぬけた先になるのが馬場です。細長い区画なので乗馬の訓練をしていたと考えられています。

馬場の途中にも櫓台が設けられています。馬場櫓台です。

続く.......