天気がよかったこともあって、海がきれいな色で見えていました。3日目のインギャーマリンガーデンなども、海の色はきれいでした。晴れていたらもっときれいだったかも知れません。ちょっと残念ですが、この色でもじゅうぶんでした。
これに対して、2日目の午後は大荒れでした。強風にあおられて、雨がたたきつけてきます。それまで晴れていたことから南国特有のスコールかとも思いましたが、そうでもなかったようです。翌朝まで続いていました。現地での予報でも、強雨風注意報が発令され、3日目まで続くとのことでした。一番荒れていたときは海もどんよりとしていました。
後日、天気図で確認しても、低気圧の接近とかいった現象はなかったようです。与那国島でも似たような天気でした。やっぱりこの時期の沖縄、特に先島諸島は気をつけた方がいいようです。
いろいろなビーチを回りました。あまりそこでは長居せず、ビーチ巡りに終わってしまったみたいな感じがします。もうちょっとゆっくりした方がよかったかも知れません。マリンレジャーとかは全く興味がありませんからこちらの方は無理としても、ぼんやりと海を眺めているとかは可能だったようです。
その他、旅行に関係したことなどを書いていくことにします。
<ホイールカバー>
レンタカーを借りて2時間ほどしてから、タイヤホイールのカバーがないのに気がつきました。この間、車とかホイールに衝撃が加わるようなことは起こっていません。途中でものが転がるような音が聞こえたような気がしますが、それ自体があったかどうかも含めてはっきりとはしません。しっかりと取り付けられていれば、簡単に脱落するものではありません。暗くて確認はできていなかったのですが、初めからなかったのかも知れません。
盗られたということはないとは思いますが、レンタカー会社の受付にホイールカバー紛失の賠償料が書かれていたことをみると多いのかなとも思ってみたりします。初めから点検の甘い人をねらってやったのではと疑ってみたりもします。
どうしてそうなったのかははっきりしません。少なくとも、ホイールに変形した跡がありました。その近くのタイヤに傷はありませんから、タイヤ交換の時などについたものでしょう。その変形のために、ホイールの取り付けが甘くなってしまっていたのかもしれません。
<観光パンフと案内標識>
観光地に着いてどこを回ろうかと考えるときに、案内パンフレットが役に立ちます。宮古島でも入手できました。3種類手に入りましたが、どのパンフも冊子になっていて大変なボリュームになります。大半は、店の情報です。こんなたくさんの店は回りきれませんから、不必要なというか店の宣伝というようなところは破り捨てました。ほとんど何も残らず、たいした参考にはなりませんでした。
広告料でまかなっているにしては、量が多すぎるような感じです。これでは観光案内というより、広告雑誌といった方がいいような感じです。広告を載せないと発行はできないし、一部の店だけというわけにもいけないし、ということでこのようになったのでしょう。石垣島でも同じでした。広告を減らすために広告主を限定しようとしても、その選び方は難しいようです。
最近見たもう一つのパターンは、有名な旅行誌の特別編集版として、自治体区域内の部分だけを抜き出したようなものです。前回の薩摩半島での南九州市や南さつま市はこの形の案内書でした。旅行誌に比べて店の案内はちょっと多いかなという程度です。それでも旅行誌に比べて、行かない地域の情報がない分だけ薄くなっています。こちらの方はわりと参考になったのですが、自治体が発行するには負担が大きいかなということと、自治体区域しかなく周辺地域のことがわからないというのが難点でしょう。
そんなことよりも、下調べもせずにいって、そこが出している情報に頼るというのがいけないのかも知れません。
宮古諸島では文化財や天然記念物として指定されているものは、その前に決まった形の説明板(?)が設置されていました。至る所でそれを見ることがありました。かなりな数、設置されていそうです。その一例を載せます。

これは、友利のあま井のものです。真ん中の石碑と左側に半分だけ写っている説明板はここだけのものです。右側の高さが1.5mくらいのコンクリート製の石柱がそれになります。一番上に文化財等の名称、その下に説明が日本語と中国語、英語、ドイツ語で書かれたそれぞれの銘板がはめられています。下には、文化財を大切にしようの文字が見えます。
これを何といっていいのかわからないので、とりあえず説明碑と呼ぶことにします。説明碑を見ると、何らかの文化財があるのがわかり重宝しました。説明もわかりやすく書かれています。形が決まっているので、何かあるというのはすぐにわかります。それでも、見つけれらばいいのですが、だいぶ見落としているようです。見落としやすい上に奥まったところにあったりして、見つけるのは宝探しのようでした。見つけ易くする工夫があってもよかったのではとおもいます。
道路沿いとかに案内標識が設置されていて見つけやすいのは、東平安名崎といった一部の有名な観光地だけです。小さなものでも道路沿いに位置が示されていればみつけ易かったような気がします。伊良部島では、周辺に観光地がどこにあるか書かれていました。そのため、観光地を巡るのには便利でした。それからすると、この近くに何があるかという情報もあってもよかったのではとおもいます。
砂川・友利地区は綾道マップが便利でした。他の地区でもありそうですが、見かけませんでした。簡単に入手できないのは、観光客に向けてはいないような感じがします。看板は持ち歩けないので、図のないところにいるとどちらに行って良いのかわからなくなることがあります。コンパクトデジカメに写しておいたもので何とかしました。
観光地についても、中がどうなっているのかわからず、どうしていいのか考えてしまう場所がいくつかありました。インギャーマリンガーデンがその典型です。せっかく整備したのだから、一緒に案内図を作るとかはできなかったのでしょうか。
入手できる案内書は情報量が少なく、しっかりとしたパンフレットとかが欲しいとは思いました。地元に負担をかけることになるので、作れとはいいにくいところがあります。経費のかかるものは有償で配布されてもかまわないような気がします。
<先島諸島火番盛>
こういうものがあるのを始めて知ったのは与那国島です。島に行く前に地理院地図を見ていると、先島諸島火番盛(ダティグチディ)と書かれた場所が見つかりました。興味はありました。このときの旅行はパッケージツアーで、そこを見る場所として設定されていませんでした。あらかじめしっかりと調べていて、バスの席が反対側だったら確認はできていたようです。ストリートビューにはしっかりと写っています。(https://www.google.co.jp/maps/@24.4629147,123.0318253,3a,33.5y,250.35h,88.51t/data=!3m6!1e1!3m4!1s93_icA4nDDmuiYLPwNYX0g!2e0!7i13312!8i6656?hl=ja)
宮古諸島でも地理院地図の何カ所かに先島諸島火番盛と書かれているのを見つけました。それぞれの場所によって、狩俣遠見、島尻遠見、来間遠見と名前がつけられています。この順番に探してみました。すぐ近くまでいけたものはあるのですが、見つけることはできませんでした。
綾道友利砂川コースの案内図に砂川遠見が書かれているので、地図に従っていけば、たどり着けると思っていました。普通なら容易に見つけられるものが、途中で道を間違えたために時間がかかりもう少し遠ければあきらめて引き返さないとという場所にありました。
ここのものは崩れて元の形がわかりにくくなっています。残っているものから推定すると、縦横5m前後の大きさで四角く、1〜2mの高さに石垣を組んでいます。内部は周辺よりわずかに高くなっています。屋根があったのかどうかは不明です。
1664年に琉球王府によって作られた先島諸島を航行する船の監視と通報のために作られた番所のようなものです。遠見番所といいます。通報のために狼煙をあげる事があるため火番盛(ひばんむい)と呼ばれるようです。
宮古5島では先に挙げた場所のほか池間島にもあり、全部で5ヵ所になります。宮古諸島では大神島、水納島、多良間島(2ヵ所)にもあり全部で9ヵ所、八重山諸島では10ヵ所にあり、全部で19ヵ所になります。
狼煙をあげる場所が、石組みの中にあったのかどうか不明です。火をたいたために焦げているというな場所は見えませんでした。中に入ると石組みがさらに崩れる恐れがあるために入らなかったために見つけられなかったのだけなのかも知れません。もう一つの問題は、ここであげた狼煙は、となりの遠見番所で確認できたかということです。特に与那国島からとなりの鳩間島まで80km以上あります。よっぽど天気がよくないと見えないだろうし、煙が識別できる大きさなのかということも気になります。竹富町内にある火番盛で実験をしたことがあったようです。その時は波照間島からのものは天気不良のためにわからなかったそうです。
もう一つ不思議に思っているのは、先島諸島と琉球王府との連絡はどうしていたのかということです。琉球王府から中国へ向かう船はあったはずです。あるいは帰って行く船があります。このような連絡をどのようにとったのかということです。宮古島から一番近い久米島まででも200km以上ありますから、狼煙で連絡が取れる距離ではありません。先島諸島間だけの連絡用だったのでしょうか。
<上比屋山遺跡>
上比屋山遺跡があると書かれている場所に行きました。最終的には見つけられなかったとして帰ってきました。上比山遺跡は14から15世紀にかけての集落跡だそうです。少なくともここを発掘したらこのようなものが出てきたというような説明があると思っていました。最低でもこのあたりとかここが中心とかいうものを期待していました。
帰ってきてから、上比屋山遺跡(の入り口と思われる場所)に書かれていた説明を見直してみると「遺跡内に10ヵ所の御嶽があり、うち3ヵ所は昔のまま石垣の上に茅の屋根が葺かれている。」と書かれています。この残ってる3ヵ所は、間違いなくウィピャームトゥの祭場の3つの建物に相当します。とするとウィピャームトゥの祭場は上比屋山遺跡の中心と考えていいことになります。
よく考えてみると比屋は「ひや」→「ぴゃー」に転化しそうです。そう思って、上比屋山の文字に振られているふりがなを見ると「うぃぴゃーやま」となっています。それに御嶽はムトゥです。従ってウィピャームトゥを漢字にすると上比屋御嶽となります。つまり、上比屋山遺跡とウィピャームトゥの祭場とはつながっていたことになります。ウィピャームトゥの祭場の脇にあった説明は苔むしていて読みにくかったので写真にだけ撮っていたのですが、見直してみるとこれにも「ウィピャームトゥの祭場は県指定遺跡上比屋山遺跡に含まれ」と書かれています。
上比屋山遺跡の入り口には2つの説明碑がありました。1つは上比屋山遺跡のもので、もうひとつはウィピャームトゥの祭場のものです。説明碑を見直してみると、上比屋山遺跡のものは県指定史跡とかかれており、ウィピャームトゥのものは県指定有形民俗文化財となっています。指定のされ方が違うので、別々にあったのだと理解できました。
ところで、上比屋山にあった集落はなくなってしまい、その後の調査でわかったというのなら史跡というのは理解できます。その一部が継続して現在でも使われているとなるとそれは史跡と呼べるのでしょうか。ちょっと微妙なところがあります。
上比屋山遺跡の南端に砂川(うるか)遠見(トゥーンカイフツイス)があります。設置が1644年なので、上比屋山遺跡の14〜15世紀よりずっとあとのことになります。これも史跡といえるのですが、上比屋山遺跡とは別物のようです。