2017年10月24日

火の山ぐるっと70   感想・余談など(2/3)

<溶結凝灰岩>
 今回の旅行中にいくつかの溶結凝灰岩にであいました。例を挙げてみます。阿蘇火砕流の溶結凝灰岩もそれなのですが、人吉市の釜の奥戸の加久藤溶結凝灰岩、深耶馬溪の溶結凝灰岩がそうです。おそらく、奥耶馬溪の変朽安山岩とされていたものも溶結凝灰岩なのでしょう。溶結凝灰岩にはなっていませんでしたが宮崎市や西都市のシラス(入戸火砕流堆積物)もその仲間みたいなものです。玖珠町大岩扇山の柱状節理も厚さからみて溶結凝灰岩の可能性が大きいようです。
 釜の奥戸で見られた加久藤溶結凝灰岩は、鹿児島県伊佐市で曽木の滝や、宮崎県都城市で関之尾の滝を作っています。(この2つの滝については「島津氏膝元駆抜る」に書いています)釜の奥戸で滝ができていなかったのは、単に厚さが薄いからにすぎません。2−3mくらいっだったでしょうか。薄い原因は噴出源から遠いためだと思っていました。噴出源の中心を決めるのは難しいのですが、噴火の中心からのだいたいの距離を求めてみると、曽木の滝で22km、関之尾の滝で35kmなのに対して釜の奥戸で16kmと一番近くなっています。鹿児島・熊本県境の山地が火砕流の流れを止めたのでしょうか。そうだとしても、人吉城近辺にシラス(噴出源は鹿児島湾)がせき止められずに流れてきているのが不思議です。
 ここにあげた溶結凝灰岩にできた滝は、平野を削り込むようにして作られています。高さの割りに幅が広いのが特徴になっています。その理由については、本家の方で説明があります。そちらを見てもらうということで、ここでの解説は省略させていただきます。
 この溶結凝灰岩でみられるものとして、甌穴があります。釜の奥戸もそうでしたし、奥耶馬溪にもたくさん見られました。奥耶馬溪の説明には、甌穴が連続してつながってこのような奇勝を作り出したと書かれています。これはかなり無理があるようです。甌穴がつながったとたん、甌穴に入った水はぬけていきますから、上の方の甌穴の口のあたりは以後削り去られにくくなります。実際には、両岸は切りたった崖のようになっていますから、上から順番に削られていったとみる方が自然でしょう。
 水が流れているところの溶結凝灰岩をみると、スプーンのようなものでこすぎ落とされたようになっているところがたくさんみられます。洪水時に流されてきた土砂が、ガラス細工のサンドブラストのように岩石を削っていったものとみた方がいいでしょう。甌穴がつながったのではなく、川の流れの乱れが岩を曲線的に削っていったのでしょう。

<アーチ橋>
 今回の旅行で最初にアーチ橋が見られたのは八女市上陽町の洗玉めがね橋でした。その後豊後大野市ではいくつかのアーチ橋を渡り歩いています。前に、この付近に来た時にたくさんあるということを知ったので、興味があり、いくつか見て回ったという次第です。上陽町・豊後大野市ともアーチ橋の多い町です。今回はまわりませんでしたが、竹田市にもたくさんあるようです。
 洗玉めがね橋の解説では、阿蘇山起源の石で作られていると書かれています。石をどこから持ってきたかは不明ですが、たぶん、この付近にたくさんあるのでしょう。阿蘇山起源の石といっても、正確には阿蘇山の溶結凝灰岩(灰石)です。最後の大規模火砕流(Aso-4)によってできたものです。柱状節理で割れたブロックの大きさが加工するのにちょうどいいくらいの大きさだということと、加工しやすさの割りに適度な強度を持っていることがその原因だと思われます。上陽町や豊後大野市では、加工のための技術を持った石工さんも多かったのでしょう。
 アーチ橋の技術は、江戸時代末期に外国からもたらされたものです。その時に、この地域で、石を加工する技術を持った人たちがたくさんいたこと、洪水で橋が流されるということが頻繁に起こっていたことなどがあわさってアーチ橋がたくさん作られるようになったのでしょう。

<古墳>
 九州に入って初日は、古墳群巡りになりました。この日は、施設の多くがが定休日で閉まっていたため、情報の入手が限られていました。わかったことや考えたことなどを整理します。
 周辺の古墳群との関係は、生目古墳群のパンフレットからわかります。前方後円墳でみると、出現はどちらも4世紀ですが、生目古墳群は5世紀になるとほとんど作られなくなります。この頃に西都原古墳群で最大の男狭穂塚・女狭穂塚ができます。古墳、特に前方後円墳は首長の勢力が関係しているとされています。このことから、4世紀に生目周辺に大きな集落があったものが、5世紀になると衰退し中心は西都原に移っていったようです。その後6世紀の古墳が見られるのは西都原の近くの新田原になります。
 この地域では、地下式横穴墓という形式の墳墓が見られ、古墳と一緒に見られるのが特徴だそうます。その模型が、宮崎県立博物館に展示されていました。帰ってから記録を整理できるまで、関連が理解できていませんでした。生目古墳群ではいくつかの古墳で、取り囲むように作られているようです。石棺も見ることができました。全景やその位置を示す目印みたいなものがあったらわかりやすかったかも知れません。西都原にも2ヵ所ほど展示しているところがあったようですが、入り口を覆っている建物だけしか見ることができませんでした。中まで見られれば博物館の展示との関連が理解できていたかも知れません。
 前方後円墳は大和朝廷と関連しているといわれます。宮崎県には天尊降臨の神話があります。宮崎県でたくさんの古墳がみられるのと何か関連がありそうなので調べてみました。実際に、前方後円墳が作られはじめるのは、奈良盆地南部で3世紀のことです。ここから交流のある地域に広がっていったとみるのが妥当なようです。天尊降臨については、権力の中心になった部族が宮崎県からいったという事なのでしょうか。
 宮崎県のいくつかの古墳群をあわせて世界文化遺産に登録しようという動きがあるようです。大阪府の百舌鳥古墳群・古市古墳群も世界文化遺産に登録しようとしています。どこもかしこも同じようなもので登録となるとうまくいくのかどうか心配です。
 今回は、見て回りませんでしたが、長島町にもたくさんの古墳があるようです。花フェスタで流れていた町歌のような音楽の歌詞にあった「古墳の町長島」というのが耳について離れませんでした。

<ジオパーク>
 今回の旅行中に2つのジオパークを通りました。天草と豊後大野です。どちらの地域にも共通していえるのは、現地に入っても、どこで何が見られるのかわからないことです。室戸とか隠岐とか有名どころのものが念頭にあるせいかもしれません。それなりの施設や解説が至る所にあって、うっかり見落としてしまいそうなものまで見ることができました。これに対して、こちらではジオパークの中にいることさえ意識できませんでした。
 天草はネットを調べてみると、わりとしっかりとしたサイトにたどり着けます。でもネットが見られなければどうしようもありません。現地に入って入手できた観光パンフレットジオサイトが取り上げられていないか、あったとしてもだいたいの位置しかわかりません。現地に行っても、案内標識もないため、それがある事自体もわかりません。現地での解説もおっぱい岩以外は詳しいものにであっていません。知らないところもありましたが、天草の意義は何となく理解できます。その割りには何のためのジオパークなのかよく伝わってきませんでした。
 豊後大野に至っては、ジオパークが設定された趣旨さえわかりません。パンフレットには見所は書かれているものの、地球との関連でどういう意味があるのかという解説がなされていません。似たようなものは隣の竹田市にもあります。もっとまわりの地域にもあるでしょう。自然現象は1地方自治体内に限定して起こるものではありません。関連したものをまとめてジオパークにできなかったのでしょうか。

<道の駅>
 今回も、地元の観光情報を入手しようといくつかの道の駅に立ち寄りました。ほとんどの所が、地元農産物販売所がメインとなっていて、パンフレットもほとんど置かれていない状態でした。道の駅という以上は最低限車を止められてトイレがあって休憩できるスペースがあればいいのでしょう。 
 よそから来たものにとって、そういう休憩所で、近くにこんなものがあるのだということがわかれば、いってみようかなという気にもなります。こういった情報の発信は大事だと思います。耶馬トピアのように立派な情報発信施設があるのに、それがわからないというのも残念なことでした。
 農産物の販売にしても、規格品が多くなったのか、この値段ならわざわざここで買わなくてもというものが多くなってきたように思います。サツマイモのように確かに安いものはありました。でも、ほとんどのものが買うところまでいきませんでした。車だとたくさん持って帰ることができるのですが、残念です。

posted by ヨッシン at 23:38| 旅行記