2017年10月18日

火の山ぐるっと69   感想・余談など(1/3)

<阿蘇山>
 今回の旅行記のタイトルは、阿蘇山を臭わせるようなものになっています。何かないかと考えている内に、阿蘇山を一周するということで、このタイトルを思いつきました。実際にはそれほど阿蘇山に近づいていないので、「大回り」をつけることにしました。これで、なんとか制限文字数10文字以内に治まりました。ただあとで、これでもタイトルが長いという気持ちになってきたので、「大回り」を取ってしまいました。
 実際に阿蘇山がどの程度関連していたかをみていきます。
 九州に入って1日目は、完全に阿蘇山の範囲外でした。相良村の北側に阿蘇山の外輪山だけでもが見えないかと期待したのですが、違う山でした。元々阿蘇山の外輪山は外からではわからないのが普通です。そのようすは、久住山からの写真を見るとよくわかります。
 2日目はもっと離れて通過し、3日目の御船町でいったん阿蘇山に近づいています。ここでは、阿蘇山関連のものはみられなかったようです。その後八女市上陽町を通過します。アーチ橋の多いところのようです。阿蘇山との関連については後述します。
 その後は再び阿蘇山から離れ、久住山で始めて阿蘇山をみることになります。久住山を降りた後は阿蘇の山麓に入ります。いくつかの滝をみましたが、阿蘇山の岩石を削ってできたものです。その後は再び阿蘇山から離れていきました。
 この間で気になるのが、阿蘇山の岩石と滝との関係です。阿蘇山は何回か大規模な噴火をしています。その中で最も大きなものは、約9万年前の4回目の噴火です。この時の発生した火砕流は九州全土をほぼ覆い尽くした上に、山口県の一部にまで達しています。周辺には厚い火砕流堆積物がたまり、阿蘇山中心部には現在みられるような形のカルデラが作られたようです。また、この時にできた岩石は阿蘇の灰石とよばれ周辺各地で利用されています。阿蘇山の大規模噴火はこれが最後になります。
 阿蘇山周辺各地でみられる地層はほとんどがこの時の堆積物(ASO-4と名付けられている)です。これと滝との関連でみていくことにします。最初に阿蘇山起源の溶結凝灰岩がみられたのはおそらく黄牛の滝でしょう。ここから豊後大野市の岩戸の景観までほとんどこの川沿いにまっすぐ下っていくことになります。黄牛の滝から2.5kmの相原では、道路沿いに溶結凝灰岩がみられました。竹田市岡城南の大野川河床に再び阿蘇山起源の溶結凝灰岩が出てきます。相原から7km離れています。次に出てきたのが原尻の滝です。岡城から4km離れています。その次が沈堕の滝です。原尻の滝から7kmです。ここから3kmで岩戸の景観につきます。
 ここで奇妙に感じていたのは、地質調査の原則のようなものがあったからです。特に大きな地殻変動を受けていないところでは、まっすぐで傾斜がほとんど同じ道があったとき、進んで行くのに従って下の地層が見えてきたら、それがずっと続くというものです。阿蘇山噴火頃の地層はこの影響を受けませんから、この原則に従うはずです。最初に黄牛の滝から相原にぬけるときに阿蘇溶結凝灰岩層を上から下へと見ていきました。としたら、次に見えてきた岡城下ではこの地層より下のものになると考えるのが普通です。岡城下と原尻の滝の関係ははっきりしません。とりあえず同じとしておきましょう。原尻の滝でいったん地層の下に入っていますから、沈堕の滝は下の地層ということになります。沈堕の滝からは下の地層に入っていませんから岩戸の景観とは同じ地層と見て良いでしょう。となると最低でも3つの溶結凝灰岩を見たような感じになっています。
 何を間違えていたのかわかったのは、岩戸の景観の写真を見ていたときです。岩戸の景観の崖は一枚岩のように見えます。これを見た場所から大野川の対岸を写した写真には明らかに溶結凝灰岩の柱状節理が写っていました。崖の高さは全く違っています。気がついたことは、岩戸の景観の崖は、阿蘇火砕流堆積物の断面が上から下まで見えています。対岸の写真も阿蘇溶結凝灰岩がたぶん上から下まで見えているでしょう。
 岩戸の景観では阿蘇溶結凝灰岩がどこに行ったのかが問題となります。初めは断層か何かがあって違う地層が見えていると思っていたのですが、これは間違いだと気がつきました。阿蘇山の9万年前の噴火で、大規模な火砕流が発生します。これが、阿蘇山周辺では厚くたまっています。火砕流によって運ばれてきた火山砕屑物がたまると底の方では、自熱によって堆積物が溶け直し再び固結することで固くなります。このようにしてできたのが溶結凝灰岩です。つまり、火砕流堆積物の底の方に溶結凝灰岩があるということです。岩戸の景観でみるとJRのトンネルがあるところから下が溶結凝灰岩になっていて、それより上は普通に火山灰がたまっている(非溶結部といいます)だけということです。
 阿蘇火砕流堆積物(ASO-4)があるかどうかは地形を見るとわかります。火砕流が流れると地形が平坦になります。火砕流台地といいます。この平坦なところを探せばいいだけです。溶結凝灰岩の上面は滝の上面でわかります。原尻の滝のように平坦になっていることがありますから、これを探しても見つけることができます。このようにして地形図から読み取った、火砕流堆積物の上面の標高と、溶結凝灰岩の上面の標高は次のようになります(この順番に並べて書きます)。
 黄牛の滝(540m−410m)
 相原  (480m−380m)
 岡城  (340m−230m)
 原尻の滝(280m−180m)
 沈堕の滝(220m−130m)
 岩戸の景観(200m−100m)
とどこも火砕流台地の上面から下100mあたりより下が溶結凝灰岩になっています。このことから、各地で見られていた溶結凝灰岩は全て同じものということになります。
 ここで問題になってくるのは、だいたい同じ地層を見続けているのに、上の方をみていたり下の方をみていたりすることです。阿蘇山噴火による火砕流台地の上面をみているとどこでも同じ傾斜ではなく、傾斜の緩いところときついところがあります。原尻の滝西方の台地の上面でみてみると、4kmの竹田市鞍ヶ田尾(岡城の南400m)では340m、2kmの豊後大野市草深野では330m、原尻の滝付近でははっきりとした平坦面はありませんが、丘陵の一番高いところが270mなのでだいたいこれくらいの高さでしょう。同じ東西2kmなのに竹田市内は10m、豊後大野市内は60mも低くなっています。
 傾斜が違う原因ははっきりしています。竹田市と豊後大野市の市境付近に、古い時代の岩石が露出している山が並んでいます。阿蘇山が噴火する前からあった山だとわかります。阿蘇山から流れてきた火砕流はこの山でせき止められます。西側ではダムのようにとめられますから、ほとんど水平にたまります。東側では、山をぬけてきた火砕流が斜面を下っていきますから、傾斜はきつくなります。非溶結部(普通の火山灰の部分)はだいたいどこも同じ厚さでしたから、溶結凝灰岩の上面も同じように傾斜が変わっているといえます。
 当然、川の傾斜も一定ではありません。溶結凝灰岩層の傾斜との関係で、地層の上を見たり下を見たりすることになります。滝がある場所に注目が行きがちです。こういう所は地層を上から下に見ていく所になります。そこばかりをみて、全体的に下の地層をみていると勘違いしてしまったことが混乱の原因でした。
 原尻の滝から沈堕の滝まで、緒方川に沿って同じ地層が2回出てきた理由について考えてみます。緒方川の流れにそってみていくことにします。原尻の滝では緒方川は南から北に流れています。この区間では地層が東に傾いている影響を受けないので、地層の上の方から下の方へと順番にみていくことになります。そして原尻の滝で溶結凝灰岩を横切ります。ここに滝が作られるわけです。
 滝を過ぎてから、川の流れは東に変わります。今度は地層が傾いている影響を大きく受けます。川の傾斜はあまり変わりませんから、今度は上の地層へと見ていくことになります。川岸は初めは深く削られますが、次第に浅くなっていきます。滝の東2kmほどの所にある緒方駅付近ではほとんど田んぼ面と川底との段差がなくなっています。空中写真を見ても、緒方駅南西方で川底に岩が露出しているところが続いています。ここで、溶結凝灰岩を下から上に横切ったことになります。
 緒方駅を過ぎたあたりから、火砕流台地の上面の傾斜は緩やかになります。地層の傾斜も緩やかになっています。このあたりから再び、地層を上から下に見ていくことになります。再び溶結凝灰岩を横切る場所が沈堕の滝となります。
 大野川に沿った空中写真をみていても同じ事が見えます。岡城の下流で、黄牛の滝から流れてきた稲葉川などいくつかの川が合流したさきに滝があるのが見えます。その後すぐに岩場の多いところが続きます。その後緒方駅の北川付近で川底に再び岩場が見えてきます。さらに下流で緒方川と合流した直後に沈堕の滝となっています。
 よく考えてみると、地層を逆の順番で見ていたところもありました。岡城の南側では、初めははっきりとした柱状節理が見えていたのに、車を止められたところではそれがあまりはっきりしていませんでした。火砕流堆積物の非溶結部に入ったことを示しています。明らかに下から上へと見ていったことになります。
 岡城付近では、いくつかの川が蛇行しながら合流しています。このようなことが起こるのは、水の流れをせき止めるような場所があったときです。火砕流が山にせき止められ流れにくくなったことと関係しているでしょう。火砕流台地の上面の高さはほとんど同じです。火砕流が流れた後、台地にたまった水の流れが悪くなったでしょう。なかなか出て行かなかったようです。そのため、浸食が他の場所に比べてゆっくりとしていて、下の方の地層までは削られる事がなかったのでしょう。この付近の川底には地層の上の方が露出することになるでしょう。

posted by ヨッシン at 22:49| 旅行記