龍馬は海運業を始めるために亀山社中を設立し、洋船を手に入手します。その船は、命名式と訓練のための航海で暴風雨に遭い、この沖で座礁したそうです。その時に4名の乗組員が亡くなっています。
龍馬は事故直後にこの地を訪れ碑を建てたそうです。この像は、龍馬が海に向かって同士を弔っている姿だそうです。

海岸で咲いていた花です。種類はわかりません。

これでだいたいの見学地に立ち寄って事になります。道を引き返していきます。バスが動き出してすぐに見えた頭ヶ島方向です、手前の島は沖の小島です。
空港につながる道路に戻ってからは中通島を引き返すように進んで行きます。

この後の九州に渡るまでの行程については、どうなっていたのか曖昧なところがいくつかあります。
まずは昼食です。五島うどんを食べたのは確かです。食事のできるところは有川港にあります。有川港は海童神社のあったところです。海童神社に寄ったついでに食べていたとしたら、時刻が早すぎるのと、立ち寄っている時間が短すぎます。とすると、有川港には2回よっていることになりますが、2回は昼食以外記憶にありません。海童神社とかを見ていたのかどうか..。全く違う場所と思っていた可能性もあります。
2番目は、どこから船に乗ったのかという問題です。可能性としては、南側の奈良尾港からか昼食を食べた有川港からのどちらかになります。乗った船の写真の解説では場所は有川港になっています。直後に作っているので間違いはないでしょう。有川港の方が可能性は高そうです。奈良尾港のような景色の記憶もありません。

3番目です。九州のどこについたかという問題です。普通に考えるなら来た時と同じ長崎港です。船の写真を見ると、有川でも長崎でもなさそうです。さらに写真左端にある茶色い建物をよくみると「SASEBO PORT」と書かれています。としたら佐世保港なのでしょうか。現在の佐世保港周辺の建物にはこれに該当するものは見つけられていません。
そう考えてみると、ものすごく曖昧ですが、当時も長崎に戻るものだと思っていたところ、佐世保と聞いて確かにこっちの方が近いと納得したような気もしています。長崎ではだいぶ遠回りになります。見直していて同じように納得しています。
港から、バスに乗り博多まで戻ってきます。太宰府付近を通過した後見えてきた水城です。

福岡市内に入ったころには、太陽が沈み始めていました。

バスは博多駅までです。そこから新幹線で大阪まで帰ってきました。