2021年04月16日

紅葉の東海三山 番外編8 門の種類 門の呼び方

 門の中にはその構造以外の事柄に注目して様々な呼び方でよばれているものがあります。例を挙げながら見ていくことにします。

 −−− 付属しているものに注目した呼び方 −−
<唐門>
 門の上に乗る屋根の形が千鳥破風ではなく、唐破風になっている門を唐門といいます。これも日本独自のもので、唐とは関係ないようです。
 普通、唐破風は屋根の妻面につきます.門の入口から見て側面にあたり見えません。そのため、唐破風を軒先につけたり、妻面が前後にむくように屋根の向きを変えたものもあります。入口側から見て唐破風が横向にあるものを平唐門、正面を向くようにあるものを向唐門といいます。
 豊川稲荷総門です。向唐門になります。門の基本的な形は四脚門です。 80623


<仁王門>
 八脚門で、両脇の4本の控え柱でかこまれた区画に金剛力士像が置かれているものを仁王門といいます。仁王さんは金剛力士の別の呼び方です。
 豊川稲荷の山門です。形式的には楼門です。80619

 置かれている金剛力士像です。口を開けた阿形(あぎょう)と閉じた吽形(うんぎょう)が対になっています。これは阿形の方です。そういえば、狛犬も阿形吽形が対になっています。80618

 金剛力士像の代わりに、四天王像や大臣が置かれているものもあります。四天王の内2人がいれば二天門、4人ともいれば四天門といいます。大臣の場合は右側が左大臣、左側が矢大臣で対になっています。このような門は随神門(随身門)といい、お寺ではなく神社の門で見られます。江戸時代の神仏習合と明治維新の廃仏毀釈が関係しているようです。

<鐘楼門>
 門の2階部分に鐘が置かれている門をいいます。楼門に鐘があるのか、鐘楼が門になったのか。後者の方が正しいのような気がします。鐘の音が外に響くように、開放された大きな窓が設けられています。
 横蔵寺の山門です。二階の窓になっているところに鐘があります。

 ここからだと鐘のようすがわかりません。境内側からははっきり見えました。


−−− 門が設置されてる場所による呼び方 −−−
<総門と山門>
 もうすでに総門とか三門とか名前がでてきていますが、どちらも、お寺の入口にある門をいいます。可睡斎や豊川稲荷のように総門と山門の両方のあるお寺もあります。どれを総門とするのかはお寺によって決めているようにみえます。今回まわったところでは、総門の内側に山門がありました。総門の方がより広い寺域の入口をさしているようです。一般的には楼門か二重門で仁王門(四天門)形式の門を三門とよんでいることが多いようです。
 山門は、お寺の名前は山号(法多山とか)でよぶことがあります。その山の門という意味で使われています。門には山号の描かれた額が掲げられていることが普通です。
 法多山尊永寺の山門です。額が下がっているのはわかりますが、この写真からは山号を読み取ることはできません。手前に石碑のような石が対になって並んでいます。石柱門のように見えます。更に外側に冠木門がありました。どれかが総門のなのでしょうか。80854

 山門ではなく三門という書き方をすることがあります。これは三解脱門の略で、ここをくぐると煩悩を解脱することができるそうです。禅宗のお寺の二重門に使われるのが一般的なようです。
 お城では、正面側が大手門または追手門、裏側が搦手門といいます。

<南門とか>
 一般的な名称というより、どちらかというと門につけた名前でしょう。単純に南側にあるから南門と呼ぶようにした、ぐらいの意味合いでしょう。門内部の区画が大きくなってくると、南大門とか朱雀門と呼び方が変わってきます。
 華厳寺中門です。中にあるから中門なのかな。形式は高麗門です。控え柱に乗る屋根が見えています。 71214


 横蔵寺の山門のように、楼門で、仁王門で、かつ鐘楼門といくつもの呼び方で呼べる門があります。どう呼ぶかは何に注目しているかによるのでしょう。お寺からすれば、形式はどうでも良く、どこにあるのかが大事なのでしょう。


posted by ヨッシン at 23:53| 雑記

2021年04月17日

「紅葉の東海三山」完結しています

 東海地方に紅葉を見に行った記録「紅葉の東海三山」が完結しています。最近は旅行に行けていない関係で、間に一般記事を挟んで旅行記長持ちさせようと企んでいます。旅行記本体はだいぶ前に終わっていました。全部で52回です。
 これ以外に旅行の度に調べたりしたことを、この旅行の記録からまとめたものを番外編として8回掲載しました。1回目は旅行に関することなので旅行記のカテゴリーに入れています。2回目から8回目は建物の見方についてなどを記載していますので、雑記として扱っています。両方の分も含めて、一覧にしました。



紅葉の東海三山 2019年11月27日から28日(1泊2日)

掲載日 旅行日 行先 など
01-1101    出発まで
01-1202 11/27 大垣市円興寺へ
01-1303 11/27 大垣市篠尾山円興寺
01-1404 11/27 大垣市円興寺から揖斐川町横蔵寺まで
01-1505 11/27 揖斐川町横蔵寺山門まで
01-1606 11/27 揖斐川町横蔵寺 境内
01-1707 11/27 揖斐川町横蔵寺 帰り
01-2708 11/27 揖斐川町華厳寺参道
01-2809 11/27 揖斐川町華厳寺 本堂まで
01-2910 11/27 揖斐川町華厳寺 本堂
01-3011 11/27 揖斐川町華厳寺 本堂裏側
02-0712 11/27 揖斐川町華厳寺境内西側
02-0813 11/27 美濃市大矢田神社 参道
02-0914 11/27 美濃市大矢田神社 本殿へ
02-1015 11/27 美濃市大矢田神社 本殿もみじ谷
02-1116 11/27 美濃市大矢田神社 門前
02-1217 11/27 犬山寂光院へ
02-1318 11/27 犬山市寂光院 参道
02-1419 11/27 犬山市寂光院七福坂
02-1520 11/27 犬山市寂光院 本堂
02-1621 11/27 犬山市寂光院 復路
02-1822 11/27 犬山市不老の滝公園
02-2123 11/27 犬山市寂光院バス駐車場
02-2324 11/27 豊川へ
02-2425 11/28 豊川市豊川稲荷本殿へ
02-2526 11/28 豊川市豊川稲荷 禅堂大黒堂
02-2627 11/28 豊川市豊川稲荷 霊孤塚・景雲門
02-2728 11/28 豊川市豊川稲荷 三重の塔山門
03-0229 11/28 豊川市豊川稲荷 山門
03-0330 11/28 袋井市法多山尊永寺へ
03-0431 11/28 袋井市法多山尊永寺 参道
03-0532 11/28 袋井市法多山尊永寺 蛸薬師堂から本堂
03-0633 11/28 袋井市法多山尊永寺本堂
03-0734 11/28 袋井市法多山尊永寺裏参道
03-0935 11/28 袋井市医王山油山寺 宝生殿
03-1036 11/28 袋井市医王山油山寺薬師本堂へ
03-1337 11/28 袋井市医王山油山寺薬師本堂から帰り
03-1438 11/28 袋井市萬松山可睡斎 山門まで
03-1639 11/28 袋井市萬松山可睡斎 本堂
03-1740 11/28 袋井市萬松山可睡斎秋葉総本殿
03-1841 11/28 袋井市萬松山可睡斎 出世六の字穴、本堂前
03-2142 11/28 森町小国神社 参道
03-2243 11/28 森町小国神社 神殿
03-2344 11/28 森町小国神社 宮川
03-2445 11/28 新城市鳳来寺山へ
03-2646 11/28 新城市鳳来寺 裏参道
03-2747 11/28 新城市鳳来寺 東照宮
03-2848 11/28 新城市鳳来寺 本堂
03-2949 11/28 新城市鳳来寺 旧本堂
03-3050 11/28 新城市鳳来寺 駐車場へ帰り
04-0351 11/28 帰阪
04-0552     感想・余談など
04-06番外編1 持ち物について
04-07番外編2 建物の様式(屋根の素材)
04-10番外編3 建物の様式(屋根の形)
04-11番外編4 建物の様式(屋根の飾り)
04-12番外編5 門の種類 基本形
04-14番外編6 門の種類 少し大きな門
04-15番外編7 門の種類 大きな門その他
04-16番外編8 門の種類 門の呼び方
posted by ヨッシン at 23:52| 索引

2021年04月18日

三国港での堆砂減少の原因はなにか

 3月の大阪公立高校一般選抜の問題で、おかしいのではと書きました。福井県三国港で防波堤を作ったところ三国港周辺で土砂の堆積がなくなったという記述についてです。下がその問題の部分です。

 ネットにあげられている限りでは、そのような記述が見られませんでした。逆にそれほど効果がなかったと書かれている一説も見つけました。 防波堤を作ったのは、オランダではこれを作たことによって、土砂が堆積(堆砂)するのを少なくすることができたからです。川の違いかなとそのサイトには書かれていました。

 その後気がついたことです。基本的に三国港は川の攻撃斜面にあたっているので、堆砂は起こりにくいはずです。堆砂があるとしたら、おそらく河口付近かその先でしょう。ここに砂がたまることによって港に出入りする船が通りにくくなっていたことはありそうです。三国港で起こった問題は、三国港での問題ではなく、その入口にあたる場所で船が通れなくなったという方がしっくりしそうです。
 河口の堆砂のあるところに川のカーブをそのまま延長して攻撃斜面が続くように導流堤を作れば、沖合まで流れの勢いはそのままです。土砂は沖合まで運ばれていきそうです。でも堆積したものを運び去るほどの勢いがあるのかどうかについてははっきりしません。
 本文中に三国港付近での変化と書かれています。その範囲に河口から沖あいまで含まれるとしたらこの文書は正しい記述になりそうです。しかし、「河口から沖合に向かう流路ができ」とわざわざ別に書かれていますから、「河口から沖合」は含まれないような気がします。
 導流堤を作ることによって、三国港付近の水面は上昇します。流れに勢いがあるということはその分水面が傾斜している必要があるからです。沖合まで流れていったということは、沖合から一定の傾斜で水面が高くなっていることを示しています。その分堆砂が起こりそうです。そうであったとしても影響は無視できるでしょう。堆砂が起こってもその分水面もたかくなりますから、水深はそれほど変わらないといえそうです。

 気になるのは、オランダでうまくいったものがどうして日本ではうまくいかなかったのかということです。一番大きな違いは、日本の場合は、川の長さが短く傾斜がきついということ、大雨による洪水の影響を受けやすく、平時に比べて流速が非常に大きくなる点です。堆砂が起こるとしたら、洪水が治まり始め流速が遅くなりはじめたときでしょう。この時にたまったものは、ふだんの流速で運ばれてくる物よりも大きな粒子ですから、導流堤で流れを運び去ろうとしても流速が少なく、運び去れないような気がします。このような土砂は、さらに新しい洪水がないと運び去ることはできないでしょう。
 大陸の河川は年間を通じて流量がそれほど変わりそうにありません。局所的な洪水とかは平均化されるからです。一定の流速で流れているとすると、ほぼ粒径のそろった砂粒が運ばれてくるでしょう。流速が変化しないのなら、いったんたまった土砂は運び去られにくくなります。

 こういった話とは別に考えないといけないことがあります。一般に河口付近では潮の干満によって流れが行ったりきたりしています。このような領域を感潮域と呼んでいます。感潮域では、いったん流れが止まる時間帯もあります。この時には堆砂が起こりそうです。いったんたまった土砂は、より強い流れがないと運び去ることができません。
 大陸の河川ではどうなるのでしょうか。川の傾斜が非常に緩やかなのが特徴です。その分、感潮域が長くなります。満潮で川を遡っていく水量は多いでしょう。その速さも大きくなりそうです。干潮になると、遡っていった水と、本来川で運ばれてきた水があわさって、感潮域でないところよりも速い流れができます。この流れによって、たまった土砂は沖合に運ばれていくことができます。
 導流堤をつくった効果は、干潮時に流れが速くなることによってじゅうぶんに期待できます。ただし、導流堤の先は新たな河口となるわけですから、ここでの堆砂は避けられません。砂の堆積する場所が広くなるので、埋まるまでの時間稼ぎはできるでしょう。
 日本の河川の場合は、感潮域も狭いという特徴があります。潮の干満による流速の変化は少ないでしょう。洪水時の流速の変化が大きく影響してきそうです。

 結局のところ、三国港の堆砂はどうなっていたのでしょう。現在は河口の南側に大きな港(福井港)が作られ、大きな船の発着はなくなっていそうです。昭和になってから、堤防を延長したのも、三国港の堆砂対策ではなく、福井港への波よけのような気がします。でも、堤防の内側に九頭竜川の流れを引き込んでいるので、港内に砂がたまっていきそうな気がします。
 九頭竜川上流には、九頭竜ダム(1968年完成)を始め水力発電用(一応多目的ダムとされています)のダムがたくさん造られています。ダムができる事によって川が運んでくる土砂が急減して、各地の海岸の砂浜が減少しているともいわれています。堆砂が少なくなったとしたらこの影響も考えてみる必要があります。


posted by ヨッシン at 00:00| 雑記

2021年04月19日

2014年別子銅山・来島海峡 01 11/25 別子銅山へ

 新型コロナ感染症の拡大で、外出自粛が続いています。2019年11月末に東海地方に紅葉を見に行ってから、1年以上も旅行に行けていません。ブログには旅行記を載せ続けていましたが、コロナ前の一番最後に行った旅行の記録も書き終わってしまいました。旅行記は2015年のものから書き始めています。それ以前にもいろいろなところに行っています。新しい旅行ができその記録がかけるまではその記録を逆順で書いていくことで記事をつないぐことにしました。
 かなり古い旅行になりますから、記録に残っていないこともありますし、記憶も定かではありません。思い出せる限りで書いていきます。どちらかというと写真の掲載中心になりそうです。少なくともどこで何を写した写真なのかという記録はつくっています。これはだいぶ参考になりそうです。



 旅行会社のパッケージツアーを見ていると、別子銅山と来島城を回るというものがありました。別子銅山は見学できる場所としては、東平(とうなる)と端出場(はでば)が代表的です。鉱山としての記録なら記念館が、東平から山を越えたところにも古い鉱道の跡が残されています。ここまでいくのは1日はかかるでしょう。
 東平は、最近東洋のマチュピチュとして有名になっています。端出場はいったことがあります。これについては機会があれば報告したいと思います。東平の方にいろいろな施設が残っているようです。いくだけの価値がありそうです。もう一つの見どころは、来島海軍の本拠のあった来島城を案内してもらえるという子です。これもおもしろそうです。
 行程は梅田からバスで移動し別子銅山を見た後、松山市内の全日空ホテルに一泊します。2日目お最初は、大島に移動して亀老山から来島海峡を遠望します。次に船に乗り来島に渡り来島城を案内してもらいます。その後はひたすら大阪に向けて帰ってくることになります。
 ツアーの行程以外に何が見られるかを考えてみます。四国の西海岸では、だるま太陽というものが見られることがあります。沈む太陽がだるまのような形になる現象です。一度見たいとは思っています。できるための条件がありますが、それは運次第でしょう。少なくとも海に沈む夕陽が見えるということは最低条件です。松山市の海岸沿いでも何カ所か夕陽の見られるところがあるようです。一応場所の候補は調べておきます。
 もう一つ条件があります。その時間帯に夕陽の見られる場所に到着できるかどうかです。日の沈む時刻と、そこに移動するための交通機関の最終時刻も調べておきました。
 夜は松山市街地の真ん中にいますから、星は期待できないでしょう。星見はなしにします。その分日程選びには余裕ができます。
 宿は、松山城のすぐ近くです。朝の散歩には行けるでしょう。早く起きていくことにします。ロープウェイであがっていくのが通常のコースです。朝の早い時間帯は動いていないようです。松山城くらいだと歩いて登っても大丈夫でしょう。
 出発日は11月25日出発と決まりました。

 25日出発までの記録や記憶はありません。梅田集合といっても中津との真ん中にあたり梅田芸術劇場前です。そこから駐車場まで歩いて行ったのか、ホテル前までバスがきたのか覚えていません。とにかくバスに乗って出発です。
 その後のコースもはっきりしていません。覚えているのは明石海峡大橋から鳴門海峡大橋を渡ったことくらいです。鳴門海峡を越えたときに添乗員さんが四国に入りましたといっていました。この時点ではまだ四国には入っていません。大毛島に着いたところで、四国はまだ次の橋を渡ってからになります。訂正をいれようか迷いましたが、しませんでした。
 鳴門に入ってから先もどこを通ったのか。当時は高松自動車道と徳島自動車道はつながっていませんでした。板野ICから藍住ICまで地道を乗り継ぐのが普通でした。鳴門から徳島まで国道を走っていたような気がします。
 吉野川SAで休憩が入りました。距離的に見て淡路SAあたりで休憩が入りそうですが記録はありません。写真の記録はここから始まっています。ハイウェイオアシスに農産物直売所があります。まだ買うのは早いということで見るだけにしています。ここでは吉野川が見えるので、見にいっています。
 展望所からの吉野川です。ガスがかかって遠くはぼやけて見えいます。
吉野川SA 吉野川

 川原にいたカモです。SAとハイウェイオアシスとの間の遊歩道を歩いています。
吉野川SA カモ

 このあたりの岩石は結晶片岩が主体です。薄く剥がれるように割れます。ここのものは緑がかったものが多いようです。
吉野川SA 川原の岩


posted by ヨッシン at 23:54| 旅行記

2021年04月20日

2014年別子銅山・来島海峡 02 11/25 新居浜市別子銅山東平到着

 吉野川SAからは別子銅山に向かいます。まずはマイントピア別子につきます。ここからは道が狭くなるので、マイクロバス2台に乗換です。ガイドさん付です。マイクロバスは途中ですれ違いができませんから、時間を調整しての出発になります。乗用車でも行けますが、狭いところを通るので、運転に自信のない方はお控えくださいと書かれています。
 南側の山地の向こう側にある銅山川にぬける道から脇道に入り、くねくねと曲がりながら進んで行きます。東平に近づいてくると、活気があった頃の建物が、ところどころで見えてきます。一瞬なので写真には収めることができません。
 すぐに東平に到着します。このあたりは、鉱山鉄道の駅があったところになります。これを書いていて思いだしたことがあります。平らな場所は「なる」とよぶ地域があります。たとえば大山の「鏡ヶ成」や「一向平(いっこうがなる)」、岡山県西粟倉村の「ダルガ峰(なる)」がそうです。これと同じ読み方なのでしょう。
 バスを降りてからは建物の中に入ったりしたようですが、どう回ったのかよく覚えていません。資料館だったのかな。小さなトンネルがありました。小マンプといいます。
別子銅山東平 小マンプ

小マンプのなかに運搬機が展示されています。
別子銅山東平 小マンプ

 いろいろな施設のあったところを順番に巡っていきます。これは貯鉱庫を上から見ています。すきまから向こう側が見えていますが、当時は壁になっていて、そのすきまに鉱石がためられていました。
別子銅山東平 貯鉱庫

 インクラインといます。京都蹴上の琵琶湖疎水にも同じ名前のものがあります。階段になっていますが、当時はレールが引かれていました。荷物を車輪のついた台に乗せ、ロープで引っ張り上げていました。
別子銅山東平 インクライン

 下の貯鉱庫を横から見ています。此の上の平らな所で鉱石を選別していました。ガスがかかっていてぼんやりとしています。
別子銅山東平 貯鉱庫 選鉱所

索道停車場跡から下の貯鉱庫を見たものです。このあたりが東洋のマチュピチュぽいところになります。はっきり見えないので雰囲気はわかりません。天気がよければ上の貯鉱庫も見えていたはずです。
別子銅山東平 貯鉱庫 選鉱所


posted by ヨッシン at 00:00| 旅行記

2021年04月21日

2014年別子銅山・来島海峡 03 11/25 新居浜市別子銅山東平 停車場跡

 東平で40枚ほどの写真を写しています。見直していてその位置関係がよくわかりませんでした。調べ直している内にわかったのは、バスが着いたところは鉱道の出口で、坑内に入る鉄道の駅舎がありました。小マンプはそこから鉱道入口までの間にあるトンネルです。ここを通って運ばれてきた鉱石は1つ目(上)の貯鉱庫に上から投げ込まれるようにしてためられます。貯鉱庫の下ではたまった鉱石を下から掘り出して、選別する場所(選鉱所)でより分けていました。選別された鉱石は、そのまま下の貯鉱庫に放り込まれためられます。
 選別された鉱石の貯鉱庫の下には、篭のぶら下がったロープウェイ(索道)の駅があり、たまった鉱石を下から崩して篭に乗せていきます。索道は麓につながっていて鉱石を運び出していました。
 篭に鉱石を乗せていた場所です。索道停車場とよばれています。
別子銅山東平 索道停車場跡

 索道停車場です。右側が貯鉱庫になります。花こう岩でできた石垣だそうです。壁に穴が開いています。草が顔を出しています。ここから貯鉱庫にたまった鉱石を索道の篭に落として積み込んだようです。
別子銅山東平 索道停車場跡

 バスを降りてからここまでは下ってきたことになります。さらに下には、住宅地の跡なども見えています。上から見るだけの様です。ここからは引き返すようで、再びバスの止まっているところに向かってあがっていきます。
 下貯鉱庫の上にある選鉱所にでました。レンガ造りの柱のようなものがあります。
別子銅山東平 選鉱所跡

 選鉱所から下側です。上の貯鉱庫と同じように壁との間にすきまがあって鉱石を落とし込めるようになっています。
別子銅山東平 選鉱所跡

 選鉱所から上の貯鉱庫を見上げたところです。
別子銅山東平 選鉱所跡から貯鉱庫

 バスの駐車しているところまで戻ってきました。駅跡から上に行く階段があって、その上に建物があります。保安本部として使われていました。現在はマイン工房として使っています。階段は当時も使われていたそうです。
別子銅山東平 保安本部跡(マイン工房)

 マイン工房前のモミジです。きれいに紅葉しています。
別子銅山東平 マイン工房前モミジ

 東平の見学は以上で終わりです。バスに乗って端出場に戻ります。
posted by ヨッシン at 23:52| 旅行記

2021年04月22日

2014年別子銅山・来島海峡 04 11/25 新居浜市別子銅山端出場

 別子銅山端出場は、2回目なのであまり写真を写していません。1回目の見学時の記録は、機会があればということで、今回記録した分だけをお伝えします。
 端出場には、マイントピア別子という建物があります。どちらかというとお土産物屋さんかな。これ以外の見学場所としては通洞を利用した鉱山探検があります。これはツアーで組み込まれていました。ツアーではルートに従って進んで行きます。マイントピア別子の横から、昔の鉱山鉄道の線路を利用したトロッコ列車にのって通洞の入口までいきます。前回は乗るほどのこともないので歩いて行きました。
 出発を待っている間に山の斜面側を見ると桜が咲いているのが見えました。冬桜と説明が書かれています(解説があったのかな)。
別子銅山端出場	冬桜

 さくらの拡大です。ちょっと雨にぬれています。
別子銅山端出場	冬桜

 密集して咲いているところです。
別子銅山端出場	冬桜

 出発してからみえた少し大きな木です。
別子銅山端出場	冬桜

 鉱山体験の記録は残っていません。戻ってきて、駐車場付近をぶらぶらしている間に写した発電所の跡です。
別子銅山端出場	発電所跡

 下を流れる川も写していました。別子川です。
別子銅山端出場	別子川

 この後はバスに乗って宿泊する松山市に向かいます。

posted by ヨッシン at 23:54| 旅行記

2021年04月23日

日暈ができていました

 今日昼頃の空を見ると、太陽の周りを丸く取り巻く日暈ができているのが見えました。正確には内暈といいます。上空に巻層雲が広がってくると見られることがあります。12時半頃のものです。太陽のところはカメラを傷めることがあるので遮蔽しています。
日暈
 毎年、5月頃になると水平アーク(circumhorizon arc 環水平アーク アークも訳すと環かな)が見られたという報告が時々あります。地平線と平行にできる虹です。立派なものは見たことがないのでこの頃になると注意しています。上空にある小さな氷の結晶(氷晶)によってできる現象です。内暈も氷晶によって起こる現象です。内暈の方がはるかによく見られます。水平アークができるときは内暈もできていることが多いようです。できる条件に近づいていたようです。
 しばらくようすを見ていました。だんだん雲が厚くなってきているようで、だんだんぼんやりとしてきました。2時過ぎのものです。
日暈
 3時頃のものです。さらにぼんやりしてきています。上端側と下端側はしっかりしているようです。
日暈
 氷晶によって見えるこのような明るい筋はいろいろな種類があります。太陽高度が低くなってくると、内暈の上端や下端に接するように上端接弧・下端接弧(upper tangent arc 上部タンジェントアーク)ができる事があります。これと内暈が重なったために少し明るくなっているようです。
 この30分後です。ほとんど日暈はわからなくなってしまいました。
日暈

 日没が近づいてくると、幻日や太陽柱といったものが見られることがあります。できるかなと思っていたのですが、この後は急に雲が厚くなり、こういった現象が見られる状態ではなくなってしまいました。このことを逆算してみると、昼前あたりのほうが水平アークができていた可能性は高かったようです。
posted by ヨッシン at 00:00| 日記

2021年04月24日

2014年別子銅山・来島海峡 05 11/25 松山市道後温泉

 別子銅山をでたのがだいぶ遅くなっています。だるま太陽が気になりますが、天気ももう一つの上に到着したのは日没になっている時間でした。今回はだるま太陽はダメだったようです。
 宿泊場所になるホテルに到着です。夕食は各自好きな場所でということで付近の案内図を渡されました。載っているのは飲み屋さんばかり、お酒は飲めませんからパスです。食べ物屋さんがないか付近を歩いて探したのですが見つけられません。結局伊予鉄の松山駅まで行ったような気がします。
 食事から戻ってからは、道後温泉にいきました。たぶん歩きです。いきは松山駅前からなので距離が長く路面電車を使ったかも。
 道後温泉の本館の入口です。人のいるところで入場券を買って入ります。軽くくつろぐコースを選んだような。入口は広いところではなく灯籠の向こう側です。
松山 道後温泉本館入り口

 でてきてからは、建物を一周することにしました。右側に回ったところです。
松山 道後温泉本館

 玉の石というものがありました。何なのかは不明のままでした。
松山 道後温泉本館玉の石

 広い道路にでて右側を見ると高台の上に不思議な建物があります。地図では城跡があったような。ちょっと離れています。調べ直してみると湯神社と書かれています。よく見ると鳥居もあります。
松山 道後温泉道後公園

 道後温泉の裏側です。
松山 道後温泉

 道後温泉駅前の広場です。からくり時計なるものが置かれていました。何が起こるのだろう。20分以上待たないといけないということでそのまま帰ったような気がします。
松山 道後温泉駅前 からくり時計

 大きな灯籠もあります。
松山 道後温泉駅前 大灯籠


posted by ヨッシン at 00:00| 旅行記

2021年04月25日

2014年別子銅山・来島海峡 06 11/26 松山城黒門口登城道

 朝目が覚めてから松山城に行きました。この文をまとめようとした時に、朝ご飯をどうしたのかが気になってきました。最初の写真記録が7時20分です。回り道をして行っていますから、7時を回ったくらいから歩き始めたということになります。ビジネスホテル風の宿なので、朝食はついていたでしょう。だいたい食事開始は7時からのところが多いようです。それからすると朝を食べずにでたことになります。
 ぐるっと回って最後の写真撮影が9時半です。そこから宿に戻るまでの時間を考えると、10時のチェックアウト直前の時間になります。戻ってからも食べている時間はないでしょう。となると朝食はどうしたかわからなくなってきます。松山城に出かける前に食べる事ができたのかそれとも朝抜きだったのか。
 松山城は黒門口登城道を登って、東雲口登城道を降りてくることにします。その後は南側にある建物を回って宿に戻ります。
 黒門口に行く途中で愛媛県庁の前を通りました。県庁です。まだ開いていません。
愛媛県庁

 二の丸庭園が見えてきました。
松山城二の丸庭園

 ぐるっと回って行くと二の丸庭園の横にでました。庭園の塀と走長屋です。
松山城二の丸庭園

 登っていく途中の木の上にいたシジュウカラです。
松山城二の丸庭園 シジュウカラ

 登っていって見えた櫓です。太鼓門続き櫓かな。位置関係がはっきりしません。
松山城 本丸南側入り口の櫓

 松山城の石垣の解説板があったところの石垣です。
松山城 本丸南側入り口の石垣

 門の跡があります。大手門かな。
松山城 大手門

 ここから北側に天守が見えています。手前の櫓は太鼓櫓です。
松山城 天守 太鼓櫓

 木の幹に鳥が止まっています。盛んに何かを食べているようです。
松山城 太鼓櫓 ヤマガラ

 地面にいた鳥です。ヤマガラです。
松山城 太鼓櫓 ヤマガラ

 木の幹にいたのは、コゲラです。
松山城 太鼓櫓 コゲラ

 Uターンするように進んでいった先に見えてきたのが戸無門です。
松山城 戸無門


posted by ヨッシン at 00:00| 旅行記

2021年04月26日

2014年別子銅山・来島海峡 07 11/26 松山城本丸へ

 戸無門をくぐって進んで行くとすぐに道は回れ左をして、筒井門が見えてきます。櫓門になっています。壁板の上に鳥が止まってさえずっています。シジュウカラです。
松山城	シジュウカラ

 別のところにはスズメもいました。今日は鳥をたくさん見ます。
松山城	スズメ

 門の前の広場からは南側に連なる山々が見えます。石鎚山がどれか気になります。
松山城から石鎚連山

 どうもこの林の向こうにあるのが石鎚山のようです。
松山城から石鎚山

 振り返って見た戸無門です。形式は高麗門になります。城郭の枡形の外側にある門はこの形式のものが多いそうです。
松山城 戸無門

 筒井門です。櫓門とその向こうに続櫓が見えています。
松山城 筒井門

 筒井門を正面から見たところです。
松山城 筒井門

 筒井門の横に小さな門があります。隠門とよばれていますが、役割が何か理解できていません。
松山城 筒井門隠門

 筒井門を入って、内側から見たところです。右側にも続櫓があります。この下に戸無門があります。
松山城 筒井門


posted by ヨッシン at 00:00| 旅行記

2021年04月27日

2014年別子銅山・来島海峡 08 11/26 松山城本丸

 筒井門を抜けると続けて太鼓門があります。この間も枡形になっていて攻め込んだ敵はまっすぐには進まず勢いをそがれます。もうそろそろ本丸に入ってもよさそうですが、ここにきてなかなか本丸への防御は固いようです。石垣を登ろうとしても上の櫓には石落としがしっかり作られています。
 太鼓門です。ここでもしっかりと上からの攻撃に遭いそうです。
松山城	太鼓門

 太鼓門をくぐり抜けて内側から見たところです。敵が入ってきても、まだ上からねらわれそうです。ここからが本丸になります。
松山城	太鼓門

 本丸に入ったものの天守はまだまだ遠くに見えています。左側の建物は北西(搦め手)側の入口にある乾櫓野原櫓になります。
松山城 太鼓門から天守方向

 近くから見た天守です。天守台をかこむように天守、小天守、櫓などが配置され渡り櫓でつながっています。
松山城 天守

 早朝なので天守は開館していませんから中を見ることはできません。天守台を時計回りに回っていくことにしました。
 天守の下にあった紫竹門です。高麗門です。搦め手から攻めてきた敵は、ここを打ち破って本丸に入ってくることになります。
松山城 紫竹門と天守

 紫竹門から乾門方向の外側の石垣を見たところです。
松山城 紫竹門から乾門方向



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2021年04月28日

2014年別子銅山・来島海峡 09 11/26 松山城東雲口登城道

 松山城天守台の周りを反時計回りの方向に回っています。紫竹門を抜けて最初に見えてきた建物が、乾門とその上の乾櫓です。古町登城道からあがってきたときの搦め手門になります。
松山城 乾門

 横にあるのが野原櫓です。城内最古の建造物と考えれているみたいです。
松山城 野原櫓

 このあたりにもたくさんの鳥がいます。これはヤマガラです。
松山城 野原櫓 ヤマガラ

 次に見えてきたのが艮(うしとら)門続櫓です。下に艮門があります。
松山城 野原櫓 艮門続櫓

 天守台の一周はほぼ終わりました。本丸広場東側の下に続く石垣が見えています。
松山城 野原櫓 北側石垣

 二の丸広場休憩所兼売店の前にあった井戸です。
松山城 井戸

 目の前は太鼓門です。本丸を後にして東雲登城道から麓に下りて行くことにします。
ロープウェイの乗り場がありますがまだ動いていません。そのまま、道を下っていきます。
 東雲神社を通りぬけて神社に登る石段を降りていきます。途中にあったもみじです。
松山城 東雲神社 石段

 駐車場にでた後、右側の階段を降りていくと、ロープウェイの発着場の建物がありました。トイレも行きたくなっていたので通りぬけることにしました。その中では松山城のしゃちほこが展示されていました。交換で取り外されたものと書いてあったような..。
松山城 しゃちほこ


posted by ヨッシン at 00:00| 旅行記

2021年04月29日

虹がでました

 今日は朝から雨が降り続いていました。昨日の午前中にも降っていました。午後にはやんでいたようです。再び夜中から雨が降りだしたようです。一昨日を振り返って見ると、午前中にだんだん雲が広がってきて、一時は日暈もできていました。前回のものに比べてぼんやりとしています。
日暈

 日暈作る雲はだんだん厚くなってきて昼頃には消えていました。午後は高層雲からだんだん雲がありてきて曇り空になっていました。日暈ができると雨ということわざがあります。その通りになりました。その雨も長く続きました。
 ことわざ通りかというと、そうでもなく23日にできた後は晴れが続きました。どうなるのかははっきりしないようです。

 今日は、夕方暗くなり始めて、カーテンを閉めて電気をつけようかとし始めた頃から暗くなるのが止まったようです。同じ明るさの時間が続きました。西の空をみるとだんだん雲が薄くなってくるのがわかりました。日没前には、雲の切れ目が出始めたようです。そうなると東の空に虹ができることがよくあります。先日も雨上がりに虹ができていたという報道がありました。見逃してはということで、東の空を見るときれいな虹ができていました。ほぼ半円形です。さっそく撮影です。全体を写しきることはできませんから、南半分と北半分にわけています。
虹虹
 虹の内側と外側で明るさが違うのがよくわかります。
 北側には副虹もできていました。
虹
 南側ははっきりしなかったのですが、写真では確認できました。
虹

 何となく過剰虹がでているようです。上の方を写してみました。あるのかないのかはっきりしないようです。
虹
 画像処理をかけてみました。不要な色を消去して、彩度を上げてみます。二回半ほど繰り返されているのがわかります。
虹
 夕陽の色が強くなってくるとわかりづらくなってきました。
虹

 その後の西の空です。きれいな雲の切れ目があります。
空

 雨が降った後、急に晴れ間が広がると、風がなければ霧ができる事が多いといわれています。そのような天気になりつつあります。霧が発生するでしょうか。現在(真夜中)は雲におおわれています。雲があると放射冷却が起こらず気温が下がりません。これから晴れ間が広がるかどうかで変わってきそうです。

posted by ヨッシン at 00:00| 日記

2021年04月30日

4月を振り返って

 相変わらずコロナが猛威を奮っています。大阪は2月末に緊急事態宣言を解除したものの再び25日から宣言が発令されています。この間蔓延防止処置がとられていたものの、新規感染者数が急激に増え、重症者数も用意している病床数を超えてしまいました。これでは、宣言をださないわけにはいかないでしょう。
 気になるのは、東京もいっしょに発令されたということです。感染者数でいえば大阪の3分の1ほど、人口が多いことを考えると大阪ほど感染が拡大しているとは思えません。巷でいわれているのが、オリンピックの会長が訪日するのに合わせて、感染者数を減らそうとしたために発令したのではということです。
 政府も東京もオリンピックにあわせて動いているように見えます。毎日500人ほどの看護師をボランティアでだせと看護師協会にいったりとどう考えても無理がありすぎます。そもそも、ボランティアを動員しようという発想自体が間違いです。一方で、商業主義に走っているところがたくさんあります。巡り巡って、ボランティアに払うべき給料を主催団体や背後の団体が吸い上げているという構図になります。開催に必要な施設についてもそうです。
 これだけコロナで、イベント自粛といっている中で、一大イベントであるオリンピックをやめられないというのが一番の矛盾点です。ましてや、オリンピックのための自粛となると何をしているのかわかりません。むしろ、国民は自粛指示に従わずに感染を拡大させて、現状では無理というところに持っていった方がいいような気がしています。開催して国内にたくさんの外国人がコロナを持ってきて、感染者が増えるのなら無理は自粛をしなくてすむ分だけましな気がします。
 オリンピックで万の数の人がやってくるそうです。日本に比べて、何十倍も感染が広がった国からです。ワクチンで抑えられたところがあるとはいえ、人数でいえば、何十万人の日本人がやってきたのと同じことです。これを止められのかというと対策も強固とは言えません。諸外国でとられているような、2週間の完全隔離をしないと意味がないのは明らかです。コロナに無関心なのに程があります。
 世間では言われていませんが、オリンピックをネタにした大騒ぎを伴う集まりがたくさんできそうです。現在でも、何かと理由をつけては出歩いたり集まったりということがおこなわれているようです。オリンピックがネタにならないはずがありません。大声、密といった感染拡大の要素が詰まっています。これだけでもクラスター発生の要因になるのは目に見えています。感染拡大はとめられないでしょう。
 オリンピックを中止できないのには、中止を言い出せる人がいないということにつきます。IOCは自分からやめるとは言い出すつもりはないし、日本はIOCがそう行ってくれるのを待っているような節も見受けられます。全てを他人任せです。このような司令塔がないものは、端からやるべきではありません。延期ではなく中止といいたくなった理由はここにもあります。元々はこのようなバカ騒ぎそのものが反対でした。万博も同じです。
 オリンピック中止を言えない理由として、「中止を言い出せるのはアスリートのみ」という意見も見ました。これだってばかげています。高校野球全国大会を中止させる権限を持っているのは高校球児なのでしょうか。ただ場所を提供してもらっているに過ぎません。これと同じでアスリートは中止になっても文句を言う資格はありません。
 IOCにやめるといわせるには、開催するけれども選手はワクチン接種の有無にかかわらず2週間の完全隔離、試合終了後すぐに帰国、いっしょに入国するのは最小限(選手5人に1人くらいの割合)、行動範囲は宿泊場所と会場それとその往復のみにする、陽性反応がでてたら則帰国、その他の関係者は入国禁止ぐらいのことをいってもよかったのではと考えます。これだと選手が来られなくなり、大会の実行ができなくなりそうです。日本は開催した(場所を提供した)と主張することはできます。IOC会長は感染拡大防止の責任は日本にあるといっています。それならこれくらいのことをいう権利はあるはずですし、感染拡大対策について文句を言う筋合いはありません。
 ゆるゆるの外国選手受け入れ規定を発表した以上、この手には進みそうもありません。次に開催を中止できる手立ては、会長の来日時に中止に向けての手順を話し合うことかなとも思います。ただ日本代表は、開催するために集まった人たちなので、このように進むとは考えられません。
 最後に残るのは、看護師協会や医師会が医療が逼迫しているので、大会に人員を裂くことができないとはっきり言うことぐらいしかなさそうです。IOCの中にも医療関係者が判断してはという意見を述べる人もでています。
posted by ヨッシン at 00:00| 雑記